doituroman
ドイツ・ロマンチック街道(2006.1.14〜1.19)
昨年は3月にエジプト・ギリシア、そして5月にはイギリスを旅したが、夏は深田日本百名山踏破の最後の仕上に費やし、秋は孫娘の誕生と忙しかった。
お産後の休養にお正月を挟んで里帰りしていた娘と3歳の孫と1ヶ月の赤ちゃんが夫の待つ家に帰った。
妻は前々から元気なうちにドイツのロマンチック街道に行きたいと言っていた。
私は十数年前に仕事でドイツに行っていたが、ロマンチック街道までは足を伸ばさなかった。
妻曰く、ノイシュヴァンシュタイン城は素晴らしい景観だが、歩いて登るのが大変だから足腰が達者な若いうちに行くべきだと。
最近良く利用している「阪急トラピックス」で6日間の「ロマンチック街道スペシャル」という企画があり、昨年中に申し込んでいた。


2006.1.14(土)、関西国際空港を10:30にルフトハンザ・ドイツ航空LH741で飛び立った。総勢38名の大所帯だった。
添乗員は女性のベテラン渡辺さん。
ドイツのフランクフルトまで約12時間半。中国から中央アジアそしてシベリアの上空を飛んでいく。真っ白な大地、凍ったツンドラ上空を何処までも飛んでいく。
途中の朝焼けが綺麗だった。

機内食は昼食と夕食そして簡単な中間食があった。ドイツビールを飲み、食べそして眠る12時間半は退屈だった。
時差は8時間。時間が戻って午後3時過ぎにフランクフルトに着いた。フランクフルト・マイン国際空港はヨーロッパ屈指の大空港で、
私の前回の旅もこの空港に降りた。
ドイツはEU加盟国で通貨はユーロ。1ユーロは約143円だった。私達は関西空港で両替していた。
入国審査はパスポートを提示するだけで非常に簡単だった。

専用バスでフラックフルト郊外のランゲンにあるホテル「アハト」に30分程で着いた。
まだ夕方の5時前であったが薄暗く、このホテルの付近には何も無いと聞いていたので、日本から持参した寿司と空港で買ったビールを飲む。
時差ボケもあり風呂に入って寝た。
2006.1.15(日)、
フランクフルトはドイツ経済の中心地でドイツ連邦銀行のみならず、ユーロを統括する欧州中央銀行の所在地でもある。
文豪ゲーテが生まれ青春時代を過ごした場所でもあった。
今回の旅はロマンチック街道巡りでフランクフルトは素通りだった。
6:15のモーニングコールで起こされ、バイキングの朝食、8:00にホテルを出発。
バスでロマンチック街道の北の起点 であるヴュルツブルグまで走る。日本も今年は1月としては異常に寒かったが、ここドイツももっと寒かった。
バスの外の気温は零下15度。周りは雪景色。
アウトバーンを走り2時間でヴュルツブルグに到着。
ロマンチック街道とは古都ヴュルツブルグから中世の街並みのローテンブルグを経て、アルプスの麓の町フュッセンに到る350kmのルートだ。
そのクライマックスがノイシュバァンスタイン城。
ヴュルツブルグはフランケン地方の中心都市で歴史は古く紀元前1000年頃にはケルト人がマイン川沿いに城塞を築いていた。
長崎の出島で活躍した医師シーボルトはこの町に生まれた。鎖国の日本に来て西洋医学を伝えた関係か、この町と滋賀県の大津市
は姉妹都市である。
又、X線を発見したレントゲンはこの町のヴュルツブルグ大学で研究していた。
まず南ドイツ・バロックの代表的建築物レジデンツの見学。世界遺産に登録されているレジデンツは、1720年〜44年に、大司教の宮殿として
建てられた。


宮殿内部は写真やビデオは禁止。ドイツの他の観光施設もほぼ同様。
有名な階段の間の一部は修復中だったが、女王陛下を迎えるために緩やかに作った階段を私たちも登った。巨大な天井画が圧倒する。
この天井は世界で一番大きいフレスコ一枚画で、ヴェネツィアのフレスコ画家テイエボロの作。
白の間・皇帝の間とう豪華絢爛たる内装。


外の庭園は広く、噴水は凍ってツララが一杯だった。
この宮殿は建物と言い、内装も庭もフランスのベルサイユウ宮殿に感じが似ている。
その後旧市街を歩き、橋の欄干に12体の聖人像が立つ立派なアルテ・マイン橋を渡った。そこから大司教の力を示すマリエンベルグ要塞が格好よく見えた。


その後ロマンチック街道を走り、中世の宝石と呼ばれるローデンブルグに行く。


町の起源は9世紀まで遡り、最初の城壁は12世紀に出来上がった。中世の面影を、ほぼ完璧に残している町として知られている。
城壁で囲まれた旧市街はまるでおとぎの国に迷い込んだ感じだった。

城壁の門を潜って街中へ入り、石畳の道を道なりに歩けば市の中心であるマルクト広場に出た。



高さ60mの鐘楼のある荘厳な市庁舎がありその隣に市参事会員酒場の建物があった。ここに「マイスタートルンク(見事な一気飲み)」の仕掛け時計
があった。この伝説的史実は老市長が一気飲みで町を救った話だ。



城塞庭園からのローデンブルグの町は屋根瓦が橙色に統一され可愛く美しい。ブレーンラインという小さな広場の周りは、様々な店屋の看板が面白く
目を楽しませてくれた。今日は日曜日の為殆どの土産物売り家が閉まっていたのが残念。








辛うじて開いていた店で妻は小さなドイツワインの小瓶と、ローテンベルグ名物のお菓子シュネーバルを買った。





バスでロマンチック街道を約284km更に南下して、ババリア地方のフュッセンに行った。


ここフュッセンはロマンチック街道の南の終点でもある。
バイエルンアルプスの峰々や森と湖の豊かな自然が一杯あるところだ。





夕食をレストランで食べ、本日の宿ホテル「ゾンネ」に入った。このホテル「ゾンネ」は旧市街のメインストリートである「ライヒェン通り」に面してあり、
同行の婦人と私達夫婦は夜の散策に出かけた。
店は閉まっていたが、ライトアップが美しい。中でもホーエス城は見事だった。


2006.1.16(月)、今日は今回の旅の最大の目的であったノイシュヴァンシュタイン城の見学だ。天気は最高に良い。私達はラッキー。
朝食後出発まで時間があったので、フゥッセンの街を散策する。昨晩見た時計塔やホーエス城。バイエルンアルプスの山々。パン市場でのリュート製造職人
噴水。


フュッセンはアルゴイ地方で最も美しい場所に位置している。
かってのバイエルン国王ルートヴィヒ2世がこの地を「王家の地」とし、17年の歳月と巨額の費用をつぎ込んで自己の夢を実現させようと、精魂込めて
作った白亜の美しい城。
この童話の世界に出てくるような美しいノイシュヴァンシュタイン城。日本では東京のディズニーランドにこの城が再現されている。
この美しさの裏にひそむルートヴィヒ2世の、后を娶らず孤独で数奇な狂気に満ちた運命は、シュタルンベルク湖での謎の死にいたるまで、
今もって多くの人の関心を集めている。
王家の土地。フュッセンを取り囲む類なき土地は支配者たちや王たちを何世紀にもわたって魅了してきた。
その証拠に60を越える城、城址、宮殿が残されているとのこと。

ホテルから約4kmのシュヴァンガウ村にバスで行く。雪に覆われた家々。真っ白なバイエルン・アルプスの峯々。
ルートヴィヒ2世の父親が建て、ルートヴィヒ2世も弟と幸せな子供時代を過ごした「ホーエンシュヴァンガウ城」も雪の中に見える。

シュヴァンガウ村のバス停のチケットセンターから坂道を徒歩で歩かねばならない。
道路は雪のため凍っていることを想定し、私は妻の為アイゼンとストックを持ってきていた。
馬車もあったが何となく二人で歩き出した。アイゼンを付け、ストックで調子をとりながら妻はゆっくりと歩く。
妻は若い時のスキーとバレーボールの回転レシーブのやりすぎで、膝を悪くしている。平地を歩くには支障がさほど無いが、坂道や山道は苦手だ。

10分ほど歩いて妻のボヤキがひどくなった。馬車が遣って来たが満員で乗れない。私がストックの片側を引っ張ってやっと仲間のラストで城に着いた。
その為周りの雪景色や森の中に佇むノイシュヴァンシュタイン城の姿をゆっくりとは鑑賞出来なかった。
いつものようにこの城も内部の写真やビデオは禁止。
作曲家リヒャルト・ワーグナーのパトロンとして、異常なまでにオペラに取り付かれたルートヴィッヒ2世は、「ローエングリン」・「パルシファル」など数多くの
オペラの名場面を場内の壁画に描かせている。城の名も「ローエングリン」の白鳥伝説に由来するとのこと。
ノイシュヴァンシュタイン城の観光客は多く、入場は時間制限があった。
かって厖大な建設費で国の財政を傾けたこのノイシュヴァンシュタイン城も、今ではバイエルン一番の観光資源になっていることは皮肉なことだ。





ノイシュヴァンシュタイン城の見学は本丸2階のいわゆる「赤の廊下」から始まった。赤いメトラッパ製の陶板床に由来する。
この階には使用人を住まわせた。左側の開いた窓から5部屋ある使用人の部屋のいくつかを見ることが出来た。
家具は樫の木製でしっかりしたものだった。廊下の壁には床の少し上に黒い鋳鉄の小扉があった。これは温風暖房用の開口部らしい。
「赤の廊下」の端には王の階段があった。王の階段を登って本丸4階の「四階控えの間」に入った。
控えの間には沢山の絵が飾ってあった。主題はニーベルンゲンの歌の古い形であるエッダのジーグルト伝説らしい。
ノイシュヴァンシュタイン城の中で最も豪華で印象深い場所は「王座の間」だった。
シャンデリアを始め壁の絵画は豪華絢爛そのものだった。
王座の間のバルコニーから、バイエルン地方で最も美しい魅力的な景色が一望の下に見渡される。
左に澄み切ったアルプ湖、右に小さなシュヴァン湖(白鳥湖)、その間にシュヴァンシュタイン城が見えた。二つの湖の後ろにチロルのアルプス(タンハイム山塊)
が聳えていた。




食堂の窓からはペラート渓谷とアーチ橋(王の母の名に因んでマリーエン橋)が見られた。冬以外はその橋の上からのノイシュヴァンシュタイン城の姿が
撮影ポイントらしいが、私達は雪のため行けなかった。
ルートヴィヒ2世の寝室は豪華な作りだった。私たちがかって見た宮殿のベッドは皆小さかったが、このルートヴィヒ2世のベッドはことのほか大きかった。
彼は身長が191cmもあったらしい。
カーテンと家具カバーは彼お気に入りの色であるロイヤルブルーだった。
寝室の読書椅子と陶製ストーブ。1886年6月12日、ミュンヘンから派遣された委員会は、この部屋で医師の報告書に基づき、王は精神障害とみなされ、禁治産者とされた旨を
王に伝えた。王はその日の内にシュタルンベルクのベルク城へ連行され、翌日に今もなお謎とされる死を遂げた。
その死が自殺か他殺かは今でも分らない。
信仰深い王は寝室の近くに礼拝堂も作っていた。そには小さな象牙製のキリスト十字架像があった。
更衣室や居間。人工的な鍾乳洞。豪華な書斎。階段最上階ー真ん中の円柱は大理石。5階控えの間。
何といっても豪華な部屋は吟遊詩人の広間だった。私が今まで見た中で最も豪華で絢爛と輝いている広間だった。
王はワーグナーの作品に深く感銘を受けていて、王は心に持っている幻想をこの現実の広場に再現しょうとしたらしい。
ノイシュヴァンシュタイン城の城中の見学は終った。
一人の絶大なる権力を持った王が自分の夢を実現させるべ造った、いや造りつつあったノイシュヴァンシュタイン城。
この城を見学して私も彼の何万分の一か分らないが、自分の夢を叶える私の城を造りたいと思った。
私の城はもっと素朴で簡素なものが良い。その程度しか造れない現実もあるが・・・・。
帰りは妻の為、馬車に乗った。一人の運賃は5ユーロだった。周りの景色をゆっくりと鑑賞出来た。雪に煙るノイシュヴァンシュタイン城は又それなりの
趣があるように感じた。










そこからドイツ最古の大学のあるハイデルベルグへ向かった。昼食を摂ったレストランの前の湖は凍っており、人が歩いていた。


世界中で愛されるテディベアの故郷の町キーンゲンでは、ショップを訪れた。
様々な熊たちが(ぬいぐるみではあるが)私たちを迎えてくれた。小さなベアがオリジナルということで、非常に高く日本円で1万円以上していた。
それでも日本で買うよりは安いと多くの旅仲間が買っていた。
私達夫婦は、一人8ユーロでマルガレーテ・シュタイフ博物館に入場した。ここにはシュタイフ社を創設したマルガレーテの遺品や、同社の創業から現在までの代表的な
テディがずらりと並んでいた。正直言って面白かった。



暗くなってやっとハイデルベルグに到着した。
ハイデルベルグ城の下にある旧市街で夕食を食べた。
ここは学生の町。テーブルは学生たちの落書きだらけだった。非常に趣のあるレストランというより酒場だった。
ハイデルベルグのホテルは「イビス」と言い、中央駅の直ぐ側。夜の散策をと思ったが、添乗員が夜は危険と注意したので朝に散歩することとした。
このホテルは湯船が無くシャワーのみ。
2006.1.17(火)、今日の予定はハイデルベルグ市内観光とライン河クルーズだ。雪が少し舞っていた。
朝食後、少し時間があったのでハイデルベルグ中央駅を散策した。構内に大きなコンビニストアがあり、菓子やチョコレートを買う。
まずハイデルベルグ城の見学。皆は城の外からの眺めだけだったが、私達は入場料を払って場内を見学した。





場内の部屋は殆ど残っていなくて、壁のみが周りを囲っていた。それなりに趣があり良かった。場内の広場からのハイデルベルグの市内は雪景色で
美しい。地下にはギネスブックに載っている世界一のワインの大きな樽があった。

旧市街を歩き、ネッカー川にかかるカール・テオドール橋を見学。橋の袂にライオンか何か分らない動物の彫刻があったが、実はこれは猿とのこと。
大学の町の学生を揶揄しているらしい。



昼からのラインクルーズの為、ラインの真珠とも呼ばれる小さな可愛らしい町リューデスハイムに向かった。
河畔のレストランで昼食を摂り、リューデスハイムからサンクト・ゴアルスハウゼンに到るライン川クルーズの為、船に乗り込む。シーズンはずれの為か
私達のグループの貸切。


小雪が舞っており寒かったので殆ど客室から川辺の古城やブドウ畑や小さな集落の景色を眺めた。
まず中州に建てられている黄色の小さな塔。ねずみの塔と言われ、中世は税関として使用され、後には信号灯として使われたらしい。




中部ライン地域で最大のブドウ畑を有するカウブの町。背後の丘の上にグーテンフェルス城。中州に船が浮かんでいるように見えるプファルツ城。
パッハラッパでは、丘の中腹にシュターレック城。町は木組みの家々が可愛らしく並んでいた。






川幅が狭く成ったところに有名なローレライの岩があった。ローレライは「妖精の岩」と言う意味で、ハイネの詩にうたわれており、ここを旅してきた
舟人が美しい黄金食の髪の乙女に魅せられて、舵を取り損ねて命を落とすと言う伝説の舞台となった所だ。


甲板に出てローレライの岩を眺めたが、迫力に乏しくさほど感動しなかった。
確かに古城は多く素晴らしい景観ではあろうが、小雪が舞っており、ガスがかかり薄ぼんやりとしか見えなかったせいかも知れない。
殆ど客室でビールを飲んでいた。約2時間のクルーズだった。
ザンクトゴアハウゼンにて下船し、バスにてリューデスハイムに20分で帰ってきた。
有名なつぐみ横丁でワインの試飲をし、土産物屋を冷やかしたが、いわゆる観光土産で私の欲しいアンチックなナイフ等はなかった。
その意味でも今回の旅は物足りなかった。
やはり海外旅行はその土地の住民が楽しみ素朴な郷土色豊かなものがなければ楽しくない。
今回は短期間ということもあったが、あまりにもスケジュールに追われて、ただ観光を消化すると言う感じがした。
今晩は又あのフランクフルト近郊のランゲンで、最初に泊まったホテル「アハト」だ。周りには何も無い。
折角フランクフルトに2泊もしていながら市内観光は一切無かった。
宿の取り方にも問題があるのだろう。
2006.1.18(水)、今日はフランクフルト空港から日本に帰るだけだ。
出発までの時間にホテル周りを散策したが、ここは完全にビジネス街で店屋も一つも無かった。史跡等もありそうに無い。
フライトは午後1時半なので、せめて午前中の短時間でもフランクフルトの市内観光でも計画してくれれば良いと思った。
2006.1.19(木)、ルフトハンザ航空LH−740便で関西国際空港に朝の8時45分に着いた。
今回のドイツ・ロマンチック街道の旅は、短すぎたこともあり物足りなかった。真冬の為、寒すぎたことも影響しているだろう。
フランクフルトやフュッセンでの自由時間も欲しかった。
ただ雪のノイシュヴァンシュタイン城は素晴らしかった。
ライン川クルーズやローレライは期待はずれだった。海外の旅を数多くこなし、アマゾン河のクルーズやギリシア・エーゲ海のクルーズを経験してきた
為かも知れない。
いずれ時間があれば昨年のイギリスのようにゆっくりとドイツを旅したいものと思った。
、
(2006.2.3)
終わり
「海外旅行」ページに戻る