生駒の英雄
長脛彦伝承地への道しるべ
生駒民俗会の四十周年記念誌「ふるさと生駒」(2019.12)に私の「長脛彦
伝承地への道しるべ」が掲載された。
紙面の都合上と内容の飛躍のため一部省略となったが、恥を忍んで全文掲載します。なお、その掲載後の内容訂正は今後考えたいと思います。(2021,3,11)
生駒の英雄
長脛彦伝承地への道しるべ
溝川牧雄
はじめに
京阪奈丘陵の一角、「くろんど池」の北側に引越し、生駒市民になって早30数年経ちました。
その間、「京阪奈学研都市」の開発が行われ、ここ高山の自然や風物が徐々に失われつつあるように感じられます。
今年の4月に「生駒民俗会」に入会させて頂き、ほやほやの1年生ですが、地元の「長脛彦(ナガスネヒコ)物語」について私の独断と偏見を承知で一筆させて頂きたいと思います。
この話題は神代のことであって、本当のことというよりむしろつくり話として書かせて頂きます。
太平洋戦争勃発のあくる年1942年に生まれた私にとって、
幼年時代の微かな記憶に、母に連れられ入った「防空壕」から見上げたB29の編隊があり、西の大阪が真っ赤に燃えている様子でした。
又、別の日、空襲警報が鳴り、「防空壕」に行く時間がなかったのか、押入れに隠れた母と姉と私。
高井田に爆弾が落ちた時は、まさに裏庭が直撃されたようでした。
人は言います。「幼い貴方がそんなことを覚えている訳がないと」。
「三つ子の魂」と言うではありませんか。
多分私にとって、それらの出来事は強烈な恐怖心として脳裏に刻み込まれたものと思います。
今でも当時暮らしていた長屋の端近くに築かれた「防空壕」の位置をはっきりと示すことが出来ます。
入り口は北側にあり、B二九の編隊は東北から南西に向かって飛んでました。
小学校入学前の記憶が殆ど無い私ですが、
この戦争の怖い記憶だけは残っています。
あれから70数年。喜寿を迎えた私。
あの原体験が以後の私の生き方・考え方を方向づけた気がします。
終戦を疎開地奈良の大和三茶屋で迎え、幼年から結婚まで東大阪市の永和・小阪で過ごしました。
戦後の民主主義教育を受けた為、天皇制復活に繋がる神話は一切教えてもらえませんでした。
それでもどこで遊んでいても,学んでいても東には生駒山があり、
孔舎衛坂で神武天皇が戦に負け、遠く和歌山の熊野から大和に攻め入り、土着の豪族を滅ぼして大和政権を作ったという話は聞いていました。
もちろんその豪族の長の名前が長脛彦とは知りませんでした。
生駒民俗会と長脛彦(饒速日命)
生駒民俗会に入会させて頂き、機関紙「ふるさと生駒」や「二十周年記念誌」・「三十周年記念誌」を読ませて頂きました。
「ふるさと生駒」創刊号から、とび山の伝説(上町)が掲載されていました。
第2号にはIさんが石造物から見る「生駒の文化と歴史」北部地域で真弓塚遺跡・金鵄発祥の地・長脛彦の本拠地に触れられ、
北部地域には伝説味をおびた事象となって残っているのが多いと指摘されています。
第9号表紙には消える伝説地写真と「伝説地白谷」地図が記され、民俗文化を伝えよう・残そうと呼びかけられ、
第9号付録には表紙に「鳶山より白谷を望む」写真と「消えゆく神話伝説の地」として数枚の写真がIさんによって記され、
さらにNさんによって「饒速日命墳墓」に眠るのは誰か?という詳細な論文が記され、
とても興味深く拝読しました。
二十周年記念座談会では多くの会員の皆さんが、「ナガスネヒコ・ニギハヤヒ」伝説に触れられ、
特に生駒市誌編纂委員長のOさんが「白庭台あの白谷は民族の遺産として残しておかなければいかん」と強調されていました。
三十周年記念誌では、Nさんが、
「神武東征と生駒のオニを考える」として伝説から掘り起こされた史実と二つの伝説の接点を考えるとして基本的な背景を単刀直入に書かれています。
私も基本的にそのように考え、私なりの疑問に思ったこと、想像や空想を交えて私なりの物語を恥を忍んで述べてみます。
神武の東征とは
神話には地域や民族のそれぞれの祖先に関する伝承があります。口伝のみのものもあり、記録として残っているものは少ないと考えます。私たちが一般的に日本の神話として考えているのは、「古事記」・「日本書紀」・「先代旧事本紀」という七〜八世紀の天皇もしくは物部氏の自分たちの部族の正当性を証明するために作られたお話です。
アイヌの伝説や東北のアラハバキ伝承・出雲神話・土佐や熊襲・日向などの色々な神話があり、どれが正解というのは多分ないでしょう。
初期の王朝が出現する以前、大和地方の生駒地方の居住者は北方から西に進出してきた縄文系の人々でした。大陸の影響も深く受け、高度の文明も開化させていました。
文明は雨と同じように西から東へやってくるという関西の常識に囚われていた自分を反省します。
同時に文明は縄文から弥生に移るという固定観念に囚われていたこともそうです。特に縄文から弥生は混在していた地域もあり、又逆に弥生から縄文に移った場所もあったに違いありません。
唐子・鍵遺跡の王は、長脛彦であったという説もあります。少なくとも生駒地方では豪族の王として狩猟を中心として平和に暮らしていたと思われます。そこへ稲作を主な生活の手段とする人びとが、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を首領として九州から移住し、生駒山西麓に住み着きました。饒速日命は大空を天の磐船に乗り九州から生駒山近辺の5ヶ所の候補予定地「哮ヶ峰」(たけるがみね)に降り立ったと言われています。河内の磐船神社付近・生駒山上の「哮ヶ峰」・高船の石舟神社・天王の朱智神社そして河南町平石の磐舟神社です。私は天の川を遡ってきた河内の磐船神社付近が有力と考えますが・・・。
九州のどこかの地域では、稲作を広めるために全国に使いを派遣したとの伝承があります。饒速日命はその目的のために大和にやって来たのかも知れません。
縄文系の人々は平和を好む民族であったため、饒速日命一族を迎え入れ、長脛彦の妹三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を饒速日命の妃としておくりだしました。
三炊屋媛は饒速日命降臨のおり、登美の族長であった兄長脛彦との間を取り持ち、登美族と天孫族を結びつけたとも言われています。そのため生駒霊峰の守護神であり、石切の御母君として祀られているそうです。
三炊屋媛という名前は稲作との関連を暗示しているようです。
九州では弥生系?の民族が筑紫(日向でなく)を中心に強力な九州王朝を繁栄させていました。
その頃、中国・朝鮮では大きな争いがあり、その影響が九州に及び、日向に住んでいた弥生系の日向族(ウカヤフキアエズ王朝とも言われています?ウエツフミという豊国文字で書かれた神話?)が追われて東へと海を渡って逃げました。
それが所謂「神武の東征」ではなかったでしょうか。
日下で侵略軍(五瀬命)を撃退
その日向族の王は五瀬命(イツセノミコト)でした。王にはミケイリ・イナヒ・イワレヒコの三人の弟がいました。
その日向族は日向を捨て、一族郎党ともども東遷せざるを得ませんでした。五瀬命は東遷するに当たって、末弟の磐余彦(イワレヒコ、後の神武天皇)に別動隊として黒潮を利用して紀州の熊野から大和を攻めるように命じました。
磐余彦は交易の経験深く、取引の才があったからです。五瀬命は東遷の際、渡来系の技術者集団も同行させていました。五瀬命の主力軍は、各地で留まりながら各地を征服することなく、数年かかってやっと河内湖の白肩津に辿りつきました。五瀬命がまず竜田を目指したのは、大和川沿いの竜田は当時、鉄の一大生産地だったからにほかありません。そもそも東遷軍が目指したのはうるわしき大和の国でなく、当時中国で貴重だった水銀等鉱物を得るためだった可能性があります。
しかし大和川の亀の瀬に阻まれ、又地滑り地帯で道もなく進軍できなく白肩津から直越え道を登って大和に入ろうとしました。
大和と共に生駒山西麓付近を治めていた長脛彦は、瀬戸内海の情報網もあり、早くから五瀬命軍の侵略行動を把握していました。生駒山頂上付近のボタンザキに監視の兵を配置し、そのボタンザキ中腹の草香山(ニギハヤヒ山)の広場に大軍を集中させ、急峻な直越え道の途中のイノラムキ古墳付近・オンバの懐・七面山洞窟に奇襲兵を配置し、付近の恵比寿山や覗き端山頂上に別動隊を潜ませていました。つまり、万全の態勢で侵略軍を迎え撃ったと言えましょう。長旅の疲れもあり、情勢も把握せぬまま太陽に向かってよじ登った五瀬命軍は、強力な長脛彦軍によって木っ端みじんに敗れ去りました。
大将の五瀬命は大男長脛彦の放った矢で腕を負傷し、厄山を北に向かって敗走し、霊泉瀧ノ口で傷の手当てをしました。 私は敗軍の五瀬命軍が、盾津の浜で負けたのに「雄詰(おたけび)」を挙げたのが不思議でしたがやっと理解できました。「酒哉大丈夫にして被傷於い痛手、報いずして死なむや」と雄詰給う。勝ちどきでなく、恨み節だったのです。
私の疑問の一つは、大将を負傷させ、一方的に勝利を収めた長脛彦軍は盾津浜に追い詰めた五瀬命軍を何故滅亡させなかったのでしょうか。同じ九州出身の饒速日命が内々に五瀬命と和平を結んでいたからでしょうか。
実は狩猟民族である縄文族は自分の生きるためだけの狩りはするが、無謀な殺生・人殺しはしないという平和思想の持主だったのです。防御はするが侵略しない。
やっと海上に逃げ延びた五瀬命軍は河内湖で梶を失って漂流し、六万寺の梶無神社付近に流されています。上町台地の北を通り大阪湾に出ましたが、その大阪湾は五瀬命の流す血で真っ赤に染まったそうです。以後大阪湾を「血ぬの海」と言う伝えがあります。
敗退した五瀬命軍は九州に戻れることなく、何とかニギハヤヒとの縁を頼って大和に入ろうと、途中の大阪湾沿いの村々で水や食べ物の補給(略奪)しながら和歌山の紀ノ川を目指します。しかし紀ノ川河口の竃山で五瀬命は無念の叫びをあげ亡くなります。それが「雄詰(おたけび)」です。竃山神社の裏山に墳墓があるそうです。五瀬命が亡くなった和歌山の竃山神社では「雄詰」祭りを毎年行っているそうです。
主力軍大将の五瀬命が亡くなったことにより、以後次兄のミケイリが紀の川を遡ります。途中の土着民との戦いで三男のイナヒも戦死します。
紀の川の上流地域(伊都郡かつらぎ町・宇陀)は水銀(丹生)の産地で、丹生族が辰砂の採取を司っていました。
ミケイリは丹生族が水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった為、渡来系の技術者を使い、丹生族から実権を奪い、莫大な財を築き、大和へ向かいました。
磐余彦の反撃
一方、別動隊の 磐余彦軍は黒潮の繋がりがある勇猛な熊襲・土佐・熊野の土着族を吸収しながら、紀勢町の錦に上陸します。伊瀬側から大台ケ原を超え、井光(いひか)に至り、丹生川付近で水銀を採取し、軍資金を得ました。そこから吉野の宮滝を通過し、やっと大和の宇陀を制圧します。宇陀の水銀採掘しながら本体の五瀬命軍を待ちます。やっとミケイリが合流しますが、ミケイリは水銀中毒のため亡くなります。
当時、三輪に勢力を持っていた饒速日命や息子のウマシマジは磐余彦が同じ九州の弥生系一族であることから磐余彦軍を密かに助けます。
以後磐余彦が大将となり、兄たちの仇、長脛彦を討つ為に
宇陀から生駒に進軍しますが、「皇軍は戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった」(日本書紀)。
磐余彦軍は、矢田丘陵の神武峰を通り、生駒市谷田石神の「東垣内の森」(谷田の七森の一つ)付近で長脛彦軍と激突します。この辺りには両軍に多くの死傷者がでて、沢山の石造物が祀られています。石神の名前の由来かもしれません。
金鵄(三炊屋媛)により和平
ようやく長脛彦の本拠がある白谷の富雄川向かいの鵄山に着きましたが、戦線は膠着状況で勝つことができません。
その時、付近は掻き曇り雹が降り、金色の鵄が磐余彦の弓に止まり、長脛彦軍は目が眩み敗退するという話です。
私はどうしても納得できませんでした。
金鵄なるものがいないのは子供でも知っています。
では金鵄とは何だったのでしょうか。
私はそれを長脛彦に強い影響力のある人物が磐余彦の密命を帯びて前線にやってきた人物であろうと想像しました。
多分、その人物は長脛彦の妹であり、物部の祖になる息子ウマシマジの母である三炊屋媛その人ではなかったでしょうか。
長脛彦は饒速日命もしくはウマシマジに刺殺されたことになっていますが、磐余彦の各地での敵(土蜘蛛等)の殺し方からして信じられません。
多分殺したことにして三炊屋媛は兄長脛彦を逃がしたのではないでしょうか。
この物語は饒速日命もしくは長脛彦の国譲りの物語といえます。
勝利を収めた磐余彦は橿原で即位し、神武天皇と名乗りました。紀元前660年のことです。「記・紀」によりますと神武天皇は「霊庭(まつりのにわ)
を鳥見(とみ)の山の中に立つ。そのところをなづけて上つ小野の榛原、下つ小野の榛原という」とあります。
この鳥見霊庭は生駒市内の南西、平群町との境界小平尾に残されています。奈良県内にはあと三ヶ所があり、 櫻井市の鳥見山頂霊庭碑と宇陀市榛原の鳥見霊庭碑と東吉野村の鳥見霊庭碑です。
青森県には「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)という古史古伝が残っています。それによれば長脛彦は大和から東北の津軽に逃げ延び、兄の安日彦と共にアラハバギ王国を建国し、のちには大和に凱旋するという伝説です。
長脛彦の正体は、第八代天皇の孝元天皇であるとの逸話もあります。
それらも又、神話であり一概にウソであると決めつけられません。
「記・紀」も又、盗まれた神話という説もあります。
私はこのような神話を持つ生駒白谷地方の幾つかの伝承を大切に保存し、皆さんに知ってもらいたいと思います。
生駒山系ハイキング「いこまい会」
私は学生時代「ワンゲル部」に入っていましたが、熱心な部員ではありませんでした。会社に入ってから友と北アルプスには行きましたが、大概は近郊のハイキング程度でした。1994年秋、東京に単身赴任となり、半年ほどで主要な名所旧跡や博物館・美術館を見終わると、土日二日間の休みは退屈でした。
丁度其の頃、家族で日光の「戦場ヶ原」を散策し、自然の神秘さ・素晴らしさに目を奪われました。
東京は関西に比べて「山登り」には非常に恵まれています。 交通の便も良く、そこそこの山に日帰り出来ました。早速お茶の水の山道具専門店「ニッピン」で山靴「ツーリスト」とミレーのリュックを買いました。幾つかの山を歩き回るうちに、深田久弥の「日本百名山」の存在を知りました。別段、山のピークを極めることを目的とする「山登り」を目指してはいませんでしたが、一つの励みになると考え深田百名山に挑戦することにしました。東京時代は年に十数回山に行きましたが、大阪に戻り営業の第一線になってか
らは、年二〜三回となりました。
2001年に35年間務めた会社を卒業し、精力的に深田百名山に挑戦し、63歳の年に黒部五郎岳をもって達成しました。プロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんが七ヶ月で一筆書きの百名山登山をしたことをテレビで見ましたが、、私は10年かかりました。最近は高い山に登っていませんが、生駒山系中心の軽い登山ならと仲間と一緒に「いこまい会」を2008年に発足させ、毎月一回、殆ど中止したこともなく、10年余り続けています。
五年前に生駒民俗会から「生駒の古道」が発刊され、私たち
は掲載されている古道をほぼ踏破しました。この本にコラム「記録に残された神話伝承地の風景」が記され、今回非常に参考になりました。
私にとってこの本は手放せないバイブルのような存在です。
生駒山を中心とするこの「長脛彦物語」を広く後世に残すためには、まず多くの人たちに知ってもらう必要があると思い、
私にできることはこの伝承地を紹介し、実際に歩いて知ってもらうことではないかと思っています。
伝承地に立つ石碑等の多くは、神武天皇即位して2600年(1940年)の年に戦意高揚のため、時の軍事推進派が建てた物です。明治時代以降に特にこの神話を政治的に利用することが多くなったことは残念です。又小学校の教科書表紙に神武天皇鳶邑顕彰碑の写真が飾られていました。戦前の国民学校で学んだ人たちにとって、神武天皇のイメージは金の鳶が止まる弓を持つ、いかめしい顔でした。その神武天皇の顔は明治天皇とそっくりです。
しかし生駒や日下に住む人たちにとって、長脛彦や饒速日命・三炊屋媛は郷土の偉大な英雄でもあったことでしょう。ただ現天皇家への遠慮から、長脛彦の名前は表面に出ることなく、饒速日命と物部氏の名前が出てくるだけです。
伝承地の主要なのは、生駒市の白谷地域、東大阪市の日下地域そして大和郡山市の矢田地域です。この三ヶ所については、1日もしくは2〜3日で回れるようなコースを考えました。その他については主要な身近な伝承地の場所の名を記すのみにしています。
本来、地図と写真を添付すべきですが、膨大な資料となるため今回は文章のみとなっています。
伝承地の道しるべ
(一〜三については駅から駅までの番号順のハイキング)
一、生駒市上町・白谷地域(一日散策ハイキングコース)
@ 学研北生駒駅
A 鵄山二丁道標(郵便局前)
B 金鵄発祥乃處(郵便局とパワーの間の道を東へ200mほど歩いた竹藪の中)
C 真弓塚(生駒市水道局真弓配水塔の東。饒速日命の弓を埋めた場所とも言われています)
D 長弓寺・伊弉諾神社・真弓塚(弓塚)(白庭山?三角点一82m)長弓寺は長脛彦の旧跡?)
E 神武天皇鳶邑顕彰碑(生駒市上町、出垣内バス停すぐ南)
F 天忍穂耳神社(アメノオシホミミは別々に天孫降臨した饒速日命とニニギの父神にあたります)
G 夫婦塚(奈良市二名、三炊屋媛の墓・富雄では長脛彦本拠地、高樋橋西・ルーチェサンタルチア店裏。あすか台公園南を三炊屋媛墳墓という伝承もある)
H 二名(生駒市と隣接の奈良市二名町、「上つ小野の榛原、下つ小野の榛原」と伝承)
I トビ神社(王龍寺・富雄地区では白庭皇居と伝わる。参道横の雑木林。数年で朽ち果てる?)
J 饒速日命墳墓(桧窪山・山伏塚。矢田山系遊歩道を通って、生駒市総合公園の北。鉄塔下、標高247m)
K 長脛彦本拠地(生駒市上町、移設地、鳥見浦池北側にある池畔)
L 鳥見白庭山石碑(生駒市上町、移設地、白谷垣内集会所内)
M 勝尾坂(磐余彦軍が長脛彦軍を破って勝どきを挙げた場所という伝承地)
N 白谷緑道(生駒市白庭台二丁目、長脛彦本拠地と鳥見白庭山二つの石碑があったと想像される付近)
O オヘ(尾塀)・ドヘ(土塀)という長脛彦本拠地の要塞(生駒市上町)
P 白庭台駅
二、東大阪市・日下地域(一日もしくは二〜三日の健脚山ハイキングコース・散策)
@石切駅
Aヒトモトススキ(海岸に生える植物で、大昔はここまで海があったという証拠)
B日下神社(日下古墳の上に鎮座、草香山の祭祀に関わった氏族日下連の墓?)
C大龍禅寺不動院(稲荷社である玉七大神が鎮座・磐座)
D池之端春日神社(ここから草香直越道という説もある)
E日下貝塚・日下貝塚碑(縄文時代には人が住んでいた)
F神武天皇盾津顕彰碑(孔舎衛小学校東)
G盾津浜石碑(元の名は草香邑青雲白肩の津ここで五瀬命軍は雄詰を挙げた。善根寺バス停北行直ぐ)
H善根寺春日神社(孔舎衛坂直越登り口、神武天皇御東征孔舎衛坂古戦場)
I八幡八幡宮(直越道中)
J霊泉龍ノ口(五瀬命が傷を洗った場所)
K神武天皇聖蹟孔舎衛顕彰碑(直越道中)
L五瀬命負傷碑(厄山、直越道中)
M哮ヶ峯(生駒山頂上付近)
Nボタンザキ(大和地方ではここがニギハヤヒ山というが、南側の鷲尾山・標高588mか)
Oニギハヤヒ山(草香山の最高所、草香山には底無し井戸が八ヶ所あったと言われる?)
Pオンバの懐(乳母の懐?ドンバ山の懐?付近には多くの岩窟が残っている)
18イノラムキ古墳(昔の草香王の墓とも?)
19七面山神社(洞窟・南無地蔵菩薩?)
20石切神社元宮山遺跡
21石切剱箭神社上の社(饒速日命の妃であり、長脛彦の妹である三炊屋媛を祀る登美霊社。「隠された英雄・長脛彦」を祀っていると言う八代龍王社、饒速日命には龍という属性がある。登美一族を別に祀る独自の宗教施設?)
22石切剱箭神社(物部氏の遠祖饒速日命とその子ウマシマジを祭神として祀る神社。「石切」をエミシ語で読むと「イシキルイ」(彼の大いなる脚=長脛彦)を意味する?)
23新石切駅
三、大和郡山市・矢田地域(1日健脚ハイキングコース)
@近鉄富雄駅
A添御懸座神社(奈良市三碓、古代天皇ゆかりの六ヵ所の御縣のひとつに比定されている古社。長脛彦に従って孔舎衛坂で戦ったことを誇りに思う伝承がある)
B葛上神社(金鵄発祥の地・石柱大正15年)
C登弥神社(奈良市石木町、とみじんじゃ・饒速日命を祀る神社。祭神の一人であるトミニギハヤヒノミコトが長脛彦であるという逸話)
D富雄丸山古墳(長脛彦の墓?日本一大きな円墳、直径110m)
E三の矢(白庭山?饒速日命が放った3本の矢の内1本が落ちたとされる塚石)
F矢田座久志玉久古神社(饒速日命を祀る神社、二の矢の塚石)
G一の矢(饒速日命が放った3本の矢の内1本が落ちたとされる塚石)
H主人神社(祭神三炊屋媛)
I矢田寺(春日神社)
J東明寺(八坂神社、3の矢が落ちた場所?日本書紀編纂の舎人親王建立)
K神武峰(岩鼻越・磐余彦軍が白谷地域へ侵入した道筋、山頂西側に平群支線5号鉄塔、山頂付近に三角点259m)
L生駒市谷田石神の「東垣内の森」(観音寺の下「谷田地蔵堂」七森の一つ、古堤街道・南ルート)
M生駒駅
四、その他(数回に分けての山・散策ハイキングコース)
★ 梶無神社(五瀬命軍が敗退中梶を失くして流れ着いた場所・六万寺)
★ 鍋塚古墳(奈良県葛城市竹内、亡骸が納められたという長脛彦古墳?直径46mの円墳)
★ 生駒山口神社(饒速日命はここに蟄居か?)
★ 磐船神社(大阪府交野市私市、河内の哮ヶ峰、天の磐船という巨石あり)
★ 高船の石舟神社・千鉾山(三角点311m)・笠上神社
★ 朱智神社(天王山・城址)
★ 住吉神社(お松の宮)
★ 唐古・鍵遺跡(長脛彦の居住地だった?)
★ 纏向遺跡(まきむくいせき、物部氏の祖先饒速日命居住地?)
★ 橿原市・益田岩船(貝吹山の連峰岩船山)
★ 平群石床神社旧社地(創起は舒明天皇3年で、神武の挙国創業に功績があった饒速日命を祀ったという。磐座・陰石?)
★ 宝山寺の福徳神社(般若窟をニギハヤヒ山と見なして?)
★ 高貴寺(河南町平石)
★ 磐舟神社(河南町平石、いかるが峰の中腹)
★ 櫻井茶臼山古墳(被葬者饒速日命?)
★ 田原住吉神社(河内磐船神社より分祀十社の一つ、蓮の台があり、磐船宮?)
★ 添御懸座神社(奈良市歌姫町、御祭神の一人であるタケチハヤノミコトは長脛彦の別名と言われている)
★ 等弥神社(奈良県桜井市、長脛彦の本拠地?)
★ 竃山神社(五瀬命が亡くなった場所)
★ 丹生都比売神社(伊都郡かつらぎ町、水銀の女神)
最後になりましたが、生駒民俗会創立40周年にあたり、このような機会を与えて頂いた会長並びに編集長さんに感謝致します。又、地図等見せて頂きました先輩のSさん、一緒に歩いて頂いたT
さん・Sさん・Nさん・Hさんにお礼申し上げます。
主な参考文献(今回追加しました)
1,「古事記」福永武彦 訳
2,「日本書記」(上)(下)宇治谷孟 現代語訳
3,「白鳥伝説」谷川健一
4,「大和誕生と神々」田中八郎
5,「神々と天皇の間」鳥越憲三郎
6,「出雲神話の誕生」鳥越憲三郎
7,「古代朝鮮と倭族」鳥越憲三郎
8
,「大いなる邪馬台国」鳥越憲三郎
9,「神武東遷」安本美典
10,「衝撃の古代出雲」安本美典
11,邪馬台国の真実」安本美典
12,邪馬台国への道」安本美典
13,卑弥呼の謎」安本美典
14,「「邪馬台国=機内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く 」安本美典
15.「盗まれた神話」古田武彦
16,「真実の東北王朝」古田武彦
17,「”邪馬台国”はなかった」古田武彦
18,「卑弥呼の謎」古田武彦
19,「”風土記”にいた卑弥呼」古田武彦
20,「天皇家誕生の謎」関裕二
21,「ヤマト王権と古代史十大事件」関裕二
22,「日本神話の考古学」森浩一
23、「ヤマト王権とは何か」坂靖一
24,「古代国家はいつ成立したか」都出比呂志
25,「邪馬台国」松本清張
26,「卑弥呼の正体」山形明郷
27,「邪馬台国は”朱の王国”だった」蒲池明弘
28,「逆説の日本史」井沢元彦
29,「日本国家の起源」井上光貞
30,「日本国家の起源」石田英一郎編
31,「日本古代国家」水野祐
32,「日本古代史を科学する」中田力
33,「邪馬台国と近代国家」千田稔
34,「ニギハヤヒと稲蔵神社」森田一彦
35,「女王卑弥呼99の謎」樋口清之
36,「弥生の風」貝田禎造
37,「抹殺された古代民族の謎」鈴木旭、内田由紀
38,「謎の歴史書”古事記””日本書記”」別冊歴史読本
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