「ヨーロッパとアジアの架け橋」イスタンプール(2002.12.19〜21)
10.「ヨーロッパとアジアの架け橋」イスタンプール
19日夜アンカラからイスタンプールにやって来た。
夕食はベリーダンスを見ながらのディナーだ。

お臍を出した艶めかしい服装で妖艶に踊る若いダンサー。
色白く豊かな体をくねくねとリズミカルに動かしながら踊るさまは何時見てもセクシーだ。今日の最初のベリーダンスは少し現代的なエロチックな踊りだった。

かって中央アジアを旅したとき、サマルカンドで見たベリーダンスは、この世の人とも思えない色白のイラン形美女による神秘的な踊りだった。中央アジアではタジクスタンが美女の出生地と言われたが、トルコではどうか。トルコの王宮には、コーカサス地方からの美女が集められたとあるから、今晩の美女はコーカサスの人かもしれない。
パリのムーランルージュで見た踊り子は殆ど北欧系であったが、私は中央アジアのイラン系美女に憧れる。井上靖の「敦煌」やシルクロードの世界に憧れる気持ちがあるからかも知れない。

民族舞踊の踊りに、Oさんは誘われ舞台に上がって一緒に踊ったが、一番前の席で見ていた私に「ハディ、ハディ(さあ、さあ)」とはちきれそうな胸元をぶるんぶるんさせながら誘われたが、よう上がれなかった。我ながら情けない。(特に私はオンチで音感が無い)

ニュージランドの時も同行の女性が舞台に上がって歌ったが、日本男性より日本女性の方が勇敢で度胸があるみたいだ。
「日本女性を妻にし、中国料理を食べ、アメリカの家に住む」のが最高の幸せと言われるがその通りかもしれない。
但しその時の日本女性は貞淑な妻のイメージだったのでは。いずれにしてもその日本女性を妻にしている私は幸せなのだろう。だらしない見栄えのしない日本男性を夫にしている女性はどんなものか、妻に聞いたことが無いのでとんと分からない。

12月20日(金)今日は一日中イスタンプールだ。
昔歌った「ウースクダラー、ピーレリンケン、アウトダビリアンブールー」はこのイスタンプールを題材にしたものだった。
今でも意味が分からないが懐かしい。

イスタンプールは、ローマ、ビザンツ帝国にオスマン朝、合わせて122人の最高権力者が手にした街。その間ざっと1600年。日本で言えば弥生時代から大正時代にあたる。

紀元330年5月11日、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝は都をローマからビザンティオンに移し、ここを「新ローマ」と名付け帝国の東半分の首都とした。後世の歴史家は古都の名にちなんで「ビザンツ帝国」と呼ぶようになった。
コンスタンティノーブルはキリスト教の中心地として、シルクロードの終着駅として繁栄の極みに達した。

この東西文明の接点イスタンプールはボスポラス海峡によってヨーロッパ側とアジア側に分かれている。この海峡はマルマラ海と黒海を結んでいる。
ヨーロッパ側のイスタンプールは金角湾(ゴールデンホーン)を挟んで、北側の新市街と南側の旧市街に分かれる。
新市街はビジネスの中心地。南の旧市街には、イスラム教寺院や歴史的な見所が集中している。

最初にブルーモスクの名で知られている「スルタンアフメット・ジャミー」見学。

6本の尖塔(ミナーレ)と高さ43m、直径27.5mの大ドーム、4つの副ドーム30の小ドームを持っている。ガランとした広いフロアの上を見上げると、高い丸天井が独特の雰囲気を醸し出していた。

260もの小窓のステンドガラス。内壁を飾る20000枚以上の青を基調としたイズニック・タイル。敷き詰められたイスラムの聖なる色「緑」の絨毯も見事で、エチオピアから送られたものだそうだ。
このブルーモスクの前で記念写真を撮ってもらった。

地下に広がる宮殿のような貯水池。内部はコリント様式の柱で支えられており、これがビザンツからオスマン朝にかけ、回り周辺の主要な水源地だったとは思われない。内部は暗くひんやりしていた。一番奥にはメドゥサーの顔が2基横たわっていた。

暗闇にポッカリと映し出された妖しい顔は、伝説どおり私を石にしてしまう力をまだ持っているようだった。

小高い丘に建てられた「トプカブ宮殿」は、15世紀半ばから20世紀初頭にかけて、オスマン朝の支配者の居城だった所だ。
現在の宮殿は博物館となっており、陶磁器のコレクション等も見て回った。敷地内にはスルタンの居室はもちろん、多くの側室を住ませたハレムもあった。修復中で外部からしか見えなかった「アヤ・ソフィ」。古代競馬場跡。

昼食は「トプカブ宮殿」内のレストランで、マルマラ海とボスポラス海峡を見ながら食べた。昼食は薄切りの肉を主としたトルコ料理。旨かった。

昼からはボスフォラス海峡クルーズに出かけた。
五木寛之の「君はボスポラス海峡を見たか」という言葉が脳裏に刻まれていた。それは多分アジアとヨーロッパの文化・文明に関して発せられた言葉ではなかったか。

ガラタ橋から出た船は黒海に向かい、周りの風景と歴史建造物を見ながらゆっくりと航海した。ビールを飲みながらの楽しい船旅だった。

中東最大とも言われる屋根付き市場「グランドバザール」。

このバザールで息子への土産「サズ」という弦楽器を買った。妻はカシミアのスカーフを値切って4枚も買っていた。このバザールは大きく出入り口が20以上もあり、店の数は4400軒とも言われている。

ここでの時間は非常に楽しかった。私だけでなくIさんもTさんも言っていた。

今回の旅行でトルコ石・絨毯・皮製品・陶磁器等いろいろ連れて行かれたが、このようなバザールが一番楽しい。

大抵の旅行会社は何らかのメリットがあるのか、いつも免税店のような有名店に連れて行くが、旅行者が行きたいのはこのような庶民的な市場だと言うことを知って欲しいものだ。

今夜の夕食はトルコ最後の晩餐ということで、「シタダルレストラン」での豪勢なシーフードトルコ料理となった。

次の朝21日は自由時間だったが、ホテルでゆっくりと朝寝坊した。10時出発で行きと同じくシンガポール航空でドバイ経由シンガポールを目指した。

今回のトルコ旅行は、それほど勉強もせず期待していなかった割には素晴らしかった。世界遺産も多く、歴史の宝庫という感じだった。まだ一部しか見学できず、いずれ又再訪したいと強く思った。






(2003.1.6)
続く
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