ヒマラヤへの旅









                                     今回の旅は妻が借りてきた一冊の本から始まった。
75年前に世界最高峰エベレストの頂上を目指したまま消息を絶った英国登山家ジョージ・マロリーの謎を追った、夢枕獏の「神々の山嶺」である。
妻と娘と私は一気にむさぼり読んだ。何時の日かヒマラヤへ行き、カトマンズや古都パタンの雑踏を歩き、シェルパ族のナムテェ・パザールからエベレスト(中国名チョモランマ、ネパール名サガルマータ=8848m)を仰ぎ見たいものだと思った。

3月の中頃、又妻が「ネパールの田舎・ヒマラヤ遠望5日」というチラシを持って帰って来た。今年の11月3日発の旅である。行きたいが休暇が果たして取れるかなと半信半疑の気持ちだった。妻も娘も行きたいという。
その頃、私は本屋で宮原巍の「還暦のエベレスト」を買った。娘は「地球の歩き方―ネパール」を買って、殆ど全部読んだという。「地球の歩き方」最後のページの広告に標高3880mに建つホテル・エベレスト・ビューから見たエベレストの写真が載っていた。このホテルは確か宮原巍が建てたものではなかったか。
娘は早速FAXを送った。ヒマラヤ観光開発から送られてきた「ネパールの旅」のパンフレットには、ゴールデンウイークの5月2日発の「ホテル・エベレスト・ビューとアンナプルナハイキング8日間」があった。早速大阪駅前第4ビルの事務所を訪ね、私達3名申し込んだが、満員でキャンセル待ちだという。4月に入って何も返事がない為、半ば諦めていた頃、4月28日発の飛行機の切符が取れたとの事。即決する。
時間がない為、それからばたばた急いで準備をする。ネパールへの入国ビザ・健康診断・トレッキング用の写真等と、会社への休暇申請。
当初、マチャプチャレ・アンナプルナ山群等ヒマラヤの眺望を楽しみながらのトレッキングを計画していたが、出発日が迫ってくるに従って、妻はとても膝の状態を考えれば、歩けないという。
やむを得ず「ホテル・エベレスト・ビューとポカラ8日間」に切り替える。

4月28日、関西国際空港からロイヤルネパール航空412便にて13時出発。時差3時間15分にて、上海経由、ネパール王国の首都カトマンズに18時45分着。
現地案内人サロウザさんの出迎えを受け、東京から来たSさん夫婦と一緒にホテル ヒマラヤに入る。ホテルで両替してもらったが、もう少しで1000ルピー騙されるとこだった。ここでは注意しなくては。私は1万円、妻と娘は5千円づつ両替した。1万円は5540ルピーだった。1ルピーは2円足らずという事になる。
ルームナンバーは4006号。シャワーを浴びて、ホテルで夕食。荷物の整理して早く寝る。

4月29日、朝早く目覚める。晴れてはいるが霞がかかったようで憧れの山々は見えない。
朝食前に旧都パタンへ一人で散歩に出向くが、ゲートが分からず早々に引き返す。
バイキングの欧米式朝食の後、3人でパタンへの散策に出かける。私の引き返したすぐそこがパタンゲートだった。凄まじい匂いと雑踏だった。インド人・チベット人・ネパール人等様々の人たちがあちこちにたむろし、果物を売り、水を汲み、神様を拝んでいる。圧倒される雰囲気だ。出発時間が気になり、ゲートの近くから引き上げる。又見にきたいと思う。
トリブブァン国際空港の国内線ターミナルから、18人乗りの小型機でルクラへ向かう。途中で窓から白い峰が少し見えた。40分程で山に激突するようにして斜面に築かれたルクラの飛行場(エベレスト初登頂のヒラリー卿が造ったとのこと)に着陸する。エベレスト(標高8848m)への登山口ルクラ、ここはすでに標高2804m、深い山の中、チベットのラマ教信仰に篤いシェルパ族の土地なのだ。乗り継ぐヘリコプターを待っている間にも、ロバに荷物を積み、ポーターを雇い、鈴の音を響かせながらトレッキングに出発して行く行列がある。まさしくここはエベレスト街道の最も大きな中継点だ。
砂埃を上げて止まったヘリコプターにSさん夫婦と私達5人が乗りこむ。耳と頭を保護するヘッドカバーを付ける。ホテルのある台地を切り開き、宮原さんが造ったシャンボチェの飛行場目指して、ヘリコプターは予想以上にスピードを上げて飛ぶ。
真っ白な神々の頂を目の前にして、山々にぶつかりそうになりながら、谷間を旨く使いながら北に向かって飛んで行く。30分程でシャンボチェの丘に着いた。ここは標高3760m、クーンブ地方では一番大きいシェルパ族の村ナムチェバザールのすぐ北側にある。このシャンボチェの飛行場建設については、宮原巍さんの「ヒマラヤの灯」(ホテル・エベレスト・ビューを建てる)に詳しく書かれている。
ホテルに向かって、1時間程度のミニトレッキングが始まる。荷物は案内人が持ってくれる。馬一頭が付いてきて、途中からSさんが乗る。500ルピーだそうだ。
途中の小さな丘を越えたら、特異な山容のアマダブラムが目の前に聳え立っていた。向こうに白銀のローツェ(標高8511m)らしき頂が見えた。奥のエベレストは霞がかった雲によってはっきりとは見えなかった。
潅木と石楠花と草原の間の明るい小道をゆっくりと進む。道端には小さな可愛いい高山植物。満ち足りた気持ち。本当にきて良かった。案内のシェルパのおじさんが指し示す向こうを見れば、迷える野生のヤクが草を食んでいる。
昼ごろにホテル・エベレスト・ビューに到着。ホテルは環境にマッチするように石と木で作られており、1階建てである。ホテルを建設するに当たり、環境破壊につながらないかと心配するヒラリー卿とは何回も話し合ったそうな。
外観はまるで城塞のようである。テラスからローツェがはっきりと見えたが、めざすエベレストは姿を見せてくれなかった。しかし周りの山々は白銀の世界であり、いずれも7000m以上の世界最高峰の頂だった。寒くもなく、空気が透き通ったようであり、しんどくもなく気持ちの良い雰囲気だった。
一面窓ガラスの気もちの良い食堂で、素敵な昼食を摂る。一杯のビールが美味しかった。ルームNO4の部屋で休憩をする。妻達が部屋で休憩している間、館内を探険する。付近の地図を買って訊ねれば、クムジュン村迄は往復2時間程であり、必要ならば馬1頭付けるとの事。直ぐに部屋にとって返し、妻達の了解を得る。
クンビューラ山とシャンボチェの丘に挟まれた所に平地があり、そこにクムジュン村とクンデ村があった。
二つの村は接していて、上手がクンデであり、下手がクムジュン村である。クンデにはヒラリー卿が建てた病院があるそうな。
案内のおじさんと一緒に山道を下って行く。途中に神聖な牛達の放牧場があった。
村の入り口には、タルチョーが風にハタハタとはためいていた。
村の中に入って行くと、1反ぐらいの区画で幾つもの草原が石垣で区切られていた。放し飼いの家畜たちの放牧場らしい。その為歩く道の両側には1mあまりの高さがある石垣がずっと続いていた。途中道の真ん中にマニ石があった。向こうから数人の若い娘達が、皆で歌を歌いながら、ドコと呼ばれる丸みを帯びた深い円錐台形の編み目の粗い竹籠を、ナムロと呼ばれる背負い紐を使って額で支え、一列になって歩いてきた。ドコには一杯に堆肥にする枯れ草が詰め込まれていた。「ナマステ!」というとにっこり笑って通り過ぎて行った。 後ろ姿は直ぐに石垣に隠れ、ドコだけが石垣の上から見えており、まるでドコがかってに連れ立って歩いているような、幻想的な風景だった。
村の中の家々は古い昔ながらのものと新築の家が混在していた。
ヒラリー卿の建てた学校の校庭では、高学年の生徒はバレーボールをし、中学年の子供たちはドッジボールに興じていた。小さな小学生達は三々五々かたまってふざけており、私がビデオを回すと撮ってくれとまとわりついた。映った映像を見せると喜んでどこまでも付いてきた。土産にと持ってきたゴルフの鉛筆をあげると飛び上がって喜んでいる。鼻はたれているが目のキラキラした天真爛漫な子供たちを見ていると、今の日本ではめったにおめにかかれない、昔の私の子供時代に返ったようで、懐かしくも有り、ほのぼのとした気持ちになった。
案内のおじさんが村の神社(?)に案内してくれた。「イエティ!・イエティ!」と言っている。何のことかさっぱり分からない。真っ暗な建物の中で鍵を開けて見せてくれたのは、黒い髪で覆われた動物の頭部だった。昔、本で読んだ現存する「雪男の頭」とは、ここクムジュン村にあったのか。
帰りは登りの為、妻は馬に乗って行くと言う。娘と私が歩いて帰っていると、鉛筆をあげた小さな女の子が、一軒のシェルパの家の前に立っていた。家から乳飲み子を抱いた若いシェルパーニが出てきたので、「家の中を見せて欲しい!」と手振りでお願いすると、笑って「どうぞ!どうぞ!」というではないか。娘と私は遠慮なしに薄暗い建物に入った。一階は家畜兼堆肥小屋になっていた。階段が有ったので、「2階へあがってもいいか?」と訊ねると、「いいよ!いいよ!」といったので娘と私は階段をあがった。2階は板の間の大部屋だった。窓があるが、数が少ない為、部屋の中はどうしても薄暗い。窓側にかまどがあり、ベッドが置いてある。反対側の壁一面が食器棚になっており、大中の食器がきちんと飾られており、狭いながらも整理整頓がいきとどいている感じだ。シェルパの誇り高き生活の一部を垣間見た感である。若きお母さんに鉛筆を数本あげてお礼を言って辞した。
馬を妻が途中で返してくれたので、私は乗って帰った。オーストラリアで乗った馬より、ずっと小さな馬だった。娘も写真撮影用に乗ってみたが「こわい!こわい!」とすぐに降りてしまった。
クムジュン村は、ナムチェ・バザール村より、ずっとシェルパらしい村とのこと。お互いに昔から仲が悪く、クムジュンはナムチェのことを「人が悪く、こすい!」といい、ナムチェはクムジュンのことを「じゃが芋ばかりくっている、田舎っぺ!」 と軽蔑しているそうな。
二村の間にあるシャンボチェの丘も、昔はヤクも見失う程の森だったそうだが、境界線でもめた両部落の人々が、両側から木を切り倒して行った為、今のような荒れ地になってしまったとのこと。その為に飛行場が出来たともいえるが。
このクムジュン村訪問は今回の旅で一番印象に残ったものだった。
ホテルでの夕食までの時間は、非常に寒かった。食堂での赤々燃えている暖炉は暖かく、滞在客の大半が暖炉の側に寄ってきた。
夕食を終えて、湯たんぽを借りて寝たが、夜中じゅう夢にうなされた。血糖値が下がっていた事と、高山病が一緒に取り付いたのか、寝苦しい一夜だった。朝方砂糖を入れたおさゆを飲んで、やっと少し眠れたようだ。

30日は朝から曇っており、どんよりとした天気でもちろん山々は見えなかった。低気圧の影響も有るのか、頭痛がひどく、なによりも気力がまったくなかった。
妻は2度も吐いたといった為、酸素ボンベを3本貰う事にした。3人ベッドに並んだまま、高山病の検査をしてもらったが、私の数値が一番悪かった。多分糖尿病との関連があると思う。妻と娘は30分で良かったが、1時間後の私の数値は相変わらず悪かったので、また1時間半ほど酸素を吸った。何をやる気も無く、3人とも朝食も昼食も断り、ただただ眠っていた。
晩は和食ということもあって、部屋に持ってきてもらって、少し食べた。
妻達は夕食後、シェルパ族の踊りのパーティに参加したが、私はまったくその気がおきなく、寝ていた。
滞在客の大半が酸素を吸ったとの事。やはり富士山より高いここでは、高山病にかかりやすいものと思う。特に私達は、高度順応の為休養すべきところを、クムジュン迄出かけ、よけいに悪くしたみたい。反省反省。
ホテル・エベレスト・ビューでの散策の1日は、ベッドからまったく離れられないという最悪の1日だった。妻達は高山植物を見る為、午後に少し散歩したらしい。

5月1日は朝早く目覚めた。カーテンを引き、窓から外を眺めれば、神々しい真っ白な頂が見えるではないか。
ローツェ(標高8601m)と、手前の山に隠れて見えないヌプチェ(標高7896m)の稜線の向こうに、あの憧れのエベレストが世界の最高峰らしく、その威容はあたりをはらって聳え立っていた。
雪は思ったほど付いてなく、それだけが黒々とどっしりと輝いていた。風が強く、山が険しい為、雪はみな吹き飛ばされてしまうのかもしれない。頂上直下の東側に雪煙がかかっていた。頂上をアタックする時の最後のベースキャンプになるという、「死の匂い」が漂うと言われているサウスコルもはっきりと確認出来た。
あの向こう側の北東陵(チベット側)から、75年前に頂上を目指したマルローは、頂上を極めたかどうか分からないまま、あのサウスコルの向こうに今でも眠っている。
「そこに山があるからだ」。ジョージ・マルローの言葉はあまりにも有名だ。その山とはエベレストのことだ。「何故あなたはエベレストに登りたかったのか」という質問に答えている。「そこにエベレストがあるからだ」。また続けて「エベレストは世界最高峰だ。誰一人まだ登頂していない。つまり存在そのものが、人間への挑戦だ。頂上を目指すのは本能的な行為だし、万物を征服したいという人間が持つ欲求の一部だと思う。」
エベレストは、チベット人やシェルパ族の間では、もともとチョモランマ(母なる女神)と呼ばれていた。1945年インド測量局によって、この山が世界一高い山と測量された為、その時の測量局長官であったエベレスト卿の名をとって名付けられた。ネパールでは、世界一高い山が自国に在る事を知って、ネパール語で「サガル・マータ」(地球の頭)と呼ぶ様になったそうだ。
妻の頭痛がひどく、また酸素ボンベを取り寄せた。妻はベッドからのエベレストご対面となった。
最も目立つアマダブラム(標高6856m)の右側から、ご来光があった。ヒマラヤ(雪の家)の最高峰が光り輝く瞬間だった。太陽が出て、エベレストやローツェが墨絵のように霞んでしまった。
明るい食堂で朝食を摂り、酸素代11700円(今回の旅での最高の支払)を払い、憧れのエベレストを後にした。
シャンボチェからカトマンズまで、ヘリコプターでルクラに寄る事無く、1時間10分で直行した。私は高山病が治りきっていない為か、空港でヘリコプターを降りた時、吐き気を催した。その為か、ハワイで買ってきたナイキの帽子を忘れてしまった。あの帽子は毎日エベレストを見ているのだと思って、捜す事も無く、進呈した。
昼食は、ホテル・ヒマラヤでのインド料理だったが、ゆっくりゆっくりのペースで時間も無く、殆ど食べれなかった。昼からカトマンズの市内観光だ。
カトマンズはネパール王国の首都。かっては国際的なヒッピーのメッカ。そしてヒマラヤを目指した登山家達が一度は必ず足を止めた場所。
昔は湖の底だったこの町は、五山に囲まれた豊かな盆地。この中には、カトマンズ以外に二つの古都パタンとバクタブルがある。標高1400mで気候は一年中温和でさわやか。
サロウザさんの案内で、カトマンズ市内観光に出かける。Sさん夫婦と私達3人だ。
まず最初に、ネパール最古の仏教寺院スワヤンブナートに行く。小高い丘の上にブッダの目が描かれたストーゥバ(仏塔)が建っている。
サロウザさんは熱心に日本語で仏教の説明をしている。私達は日本人である為、詳しくは知らないが、そこそこの常識的な話は聞き知っている。その為、説明は馬耳東風で、もっぱら出店のアンティックな土産物か、「高くないね、10枚千円、安いね!」という物売りの方に興味が向いた。私はここでククリ(ネパールの山刀)を2本買った。2本で500Rsぐらいだったと思う。
それから、寺院が立ち並ぶ旧王宮前広場ダルバール広場へ行った。広場中央の、ひときは高い建物はシブァ寺院、上層の窓からシブァ神と妃が下界を見下ろしている、シブァ・パールブァーティ寺院。ダルバール広場の南側に、小さい窓枠が木彫りの彫刻の見事な建物が有る。生き神が住んでいるクマリの館だ。大分待たされたが、幼い少女がつまらなさそうに一瞬顔を覗かせてくれた。彼女がクマリだそうだ。外に出る事も出来ず、遊ぶ事も出来ないクマリがかわいそうに思えた。
ダルバール広場で見学している間、タンカ(チベット仏教の仏画)や首飾りやネパールの古銭を売りにくる幼い子供たち。「高くないネ」「安いネ」と売りにくるが、何に比べて高いのか安いのか、さっぱり分からない。大人の1日の労賃が100ルピー程だから、千円(500ルピー)は大金だ。事実ネパールを旅している間、1000ルピーを使った事は一度も無い。何か1000Rsはとてつもなく大きなお金という印象だった。
旅している楽しみの一つに、物売りから値切って土産物(たいてい偽物)を買う事がある。日本ではタバコ銭が、それらしい品物になって、そこを訪れた想い出として、土産になる。又、友に旅行の記念として渡すのもいい。がらくたで安いものとしても、間違いなく、旅先で買ったものであるから、それなりの値打ちが発生している。
乞食に恵むのでなく、品物の代価として、お金を渡すのであるから、これは取り引きである。そのようにして、ささやかなお金をネパールの子供たちに分け与える事が、目くじらを立てるほど悪い事だろうか?
可愛いい女の子と美人のチベット人から、古銭と首飾りを、言い値の3分の1ぐらいで買った。妻と娘は軽蔑の眼差しで私を睨んでいる。
博物館に寄ったが、既に閉まっていた為、予定より早くホテルに帰る。風呂に浸かれる為、一刻も早く部屋に帰るのは大歓迎だ。
カトマンズは騒音と埃、そして果物の腐ったような血の匂いで充満しているようだ。民族の種類の多さ、言葉の違い、ヒンズー教と仏教、チベットのラマ教と雑踏の中で混じり合っている。又そこが面白く、魅力あるところ。しかし昨日の今日、高山病の病み上がりには少々きつすぎた。
ホテルで待望の風呂に入って一段落。夕飯は正式のネパール料理。ネパールの料理ダルバートは、ご飯、ダル(豆のスープ)、タルカリ(野菜のおかず)、アチャール(漬物)がセットになったもの。今夜はこれらにローストした水牛肉が付いていた。食前酒として、かの有名なロキシー(米等から作った蒸留酒)を、1mほど上からたらたらと上手にこぼす事無くチョコにいれてくれた。大変きついお酒だった。
食事中、ネパールの色々な踊りを楽しませてくれた。民族衣装を着た男と女の踊りは、面白くコミカルで何となくセクシーを感じさせた。
日本でもそうだが、もともと農耕民族の祭りに付き物の踊りは、豊かな実りを願う、神への祈り・奉仕である為、セックスしてたくさんの子供を作るという所作・動きであろう。土偶による女性像もそれと同じ意味。
普段なら喜んで食べるであろうネパール料理も、殆ど口に出来なかった。まだ高山病は完全に治りきっていないものと思う。
部屋に帰って、風呂に入って、少し妻達のトランプの相手をして、直ぐに寝た。

5月2日は晴れ。ここヒマラヤ・ホテルはカトマンズの郊外というより、古都パタンの一部なので、出発時間までの間、私達家族でパタン見物しょうとなった。
パタンの門までは、かって知った道。旧王宮前広場へ行くべく、右の小道に入って行った。パタンはカトマンズと比べて、ずっと清潔だ。なんとなく皆の顔も上品だ。日本で言えば京都という感じ。何でも殆ど仏教徒らしい。
途中の店で、娘はサンダルを買った。75ルピーとかで安く買えたと、大変喜んでいた。広場はカトマンズと同じく、回りは寺院だらけであった。店屋も物売りも雑踏も同じ。しかし埃は少なく感じがいい。私はいつものごとく、ネパールの若き商人と取り引きを始めたかったが、時間を気にする妻の為、何も買わず、タクシーを拾ってホテルに帰った。50ルピーだった。多少高めであるが、まあそんなものらしい。
いつもの空港から、ポカラを目指して、小型機で40分足らず乗った。皆は窓から白銀のアンナプルナ山系が少し見えたといっているが、私にはちっとも見えなかった。窓からは山の上まで開墾された段々畑が、どこまでも見えていた。又、河の侵食によって大地が所々深くえぐられており、水田や畑が潰されているような感じで、そこで生活している人々の苦労を思った。
ポカラの宿は、空港の向かい側にある三つ星ホテル、ニューホテル・クリスタルだった。どういう訳かお客が殆どいなく、私達は別館の2階で二つの寝室がある610号室。落ち着いた部屋で、ベランダから真っ正面にかの有名なマチャプチャレ(魚の尾、6993m)が見えるはずだが、霞がかってダメ。
昼食はホテルでしたが、客は私達だけだった。ここにはサロウザさんも付いてきており、私達家族の専属案内人になってくれている。Sさん夫婦はミニトレッキングで別行動だ。
昼からは、ポカラの市内観光だ。
湖とアンナプルナ連峰の展望で知られるポカラは、カトマンズから西へ200km。ヒマラヤから下る河が開いた緑豊かな、標高800mぐらいの亜熱帯的な気候だ。
まず最初に、行った所は、パタレ・チャンゴ。ベワ湖から流れ出す水を大地が飲み込んでいる様は奇怪な場所だ。ダビッドというアメリカの夫人が落ちた為、ダビッドの滝とも呼ばれているらしい。ここはタシリン・チベット村の近くの所為か、みやげ物店でチベット人が、アンモナイトの化石を売っていた。弟のYは化石収集が趣味で、私のヒマラヤ行きを聞いて、アンモナイトの土産を所望した。
昔、5億年前ヒマラヤは海だった。その為、この付近ではアンモナイトがよく採れるとの事。この店で売っている化石は10cmぐらいの丸い石。割ってみればくっきりとアンモナイトが見えるではないか。大きさの違う黒い石を6個、値切って700ルピーで買った。もっと買いたかったが、時間が無いので又の機会にする。
そこからダムサイトを通り、賑やかなレークサイドを横目で睨んで、オールドバザールへ行った。かってはチベットとの交易で賑わっていた所だ。古い街並みを少し散策した。
そこから北へヒンドゥー教の神々を祭るヒンドゥバシニ寺院を訪れた。境内中央、ドゥルガー像が安置される祠の正面では、毎朝生け贄として、鶏や山羊が首を刎ねられる。石畳には血のりがこびりついている。生け贄を結ぶ石の柱があった。サロウザさんによれば、生け贄として他に、羊・水牛・アヒルがあるらしい。生け贄という残酷な習慣が今もって何の疑問も無く続けられている事にショックを覚えた。念のために言っておけば、ここネパールはヒンドゥー教の為、牛は神聖にして神の使い、食べるとはもっての外、口にする事さえ憚れる。市内の大通りを悠然と歩く牛達。車はうまくその牛をかわして進む。牛の方がここでは偉いのだ。牛を轢く事は人間を轢くのと同じことらしい。
川が地面深く切りこんだ奇観セティ・ゴルジを見、ニューバザールを通ってホテルに戻った。
明日は総選挙の為、車は一切禁止とのこと。2度投票出来なくすることと、選挙妨害を防ぐ為らしい。
明日はポカラでの自由行動の日。マチャプチャレ等アンナプルナ山系を見る為、せめてサランコットの丘へ行きたいものと思っていた。せめて貸し自転車でもないかとサロウザさんに詰め寄る。
明後日朝4時に迎えにくるから、サランコットの丘へ日の出を見に行こう。そうと決まれば明日はのんびりとベワ湖でのボート遊び。
夜はホテル内での、ネパールダンスショー。1時間程で100ルピー。大きな会場で私達家族とサロウザさん、そしてホテルの社長さん。演ずるは笛や太鼓の楽団と、数人の男女の踊り子。食事は終わってからの為、ビールとつまみで見物。出し物はカトマンズのとさほど違わなかったが、こちらはずっと家族的だった。最後に私と娘も舞台に引っ張り出され、皆で手を繋いで、足と手で調子を取りながら、どたどたとぎこちなく踊った。体を動かして楽しく、若きネパール女性に例の鉛筆10本ほどを進呈した。

5月3日は晴れてはいるが、いつものように霞みがかって期待の山は見えなかった。
朝、ホテルの周りを少し散歩するが、本日は総選挙の投票日である為、「何が起こるか分からない為」妻はホテルから遠くへいくなという。
10時頃、私達家族はサロウザさんの案内で、空港の側を、かの有名なペワ湖畔のレイクサイド目指して歩いた。
途中で自転車4台借り(1台50Rs)、ペワ湖でのボート遊びをすべく船着き場に向かった。途中大きな菩提樹の周りを石で囲ったチョウタラ(休憩所)が、いくつもあり、村人達がそこで腰掛けて休んでいた。石を積むことは功徳を積むことと、個人の篤志家が財をはたいて建造したものだそうだ。
ボートには私達3人が乗った。サロウザさんは友達と会ってくるという。ボート代は1時間漕ぎ手がついて、1台170Rsだった。本来ならマチャプチャレ等、神々の頂を見ながらのボート遊びだが、霞んで見えなかった。それでもペワ湖での、のどかなひとときは肩の力が抜けて行くような、静かな時間だった。家に戻ったら、近くの池でもこのような時間を過ごしたいものと思った。
レイクサイド国王別荘前の日本料理店「味のシルクロード」でうどん等日本食を食べた。美味しかった。ここは日本人の連絡場所にもなっており、チベットのラサから行方が分からない若者の尋ね人のチラシもあった。
夕方まで自由時間ということで、レイクサイドのみやげ物店等をひやかすことにした。チベット人の店に、アンモナイトが売っていたので、小さいものを数個又買った。アンモナイトはチベット人の店しか売っていない。何か保護政策が有るのかもしれない。
妻と私は安いサンダルを買った。レイクサイドの通りを、湖にそって自転車を走らせ、田園の中の、レストラン(藁葺きの四阿)に入った。ビールとペットボトルの水で、1時間ほど何も考えずゆっくりとした。小鳥達を撮るべく妻はカメラを構えたままじっとしていた。静かに波立つ湖や、草を食む水牛達を見るとも無く見ていれば、悠久の時間が過ぎて行く。このような休暇の過ごし方に慣れていない私達は、何もしていないことに(損をしているような)いらだちを覚え、又レイクサイドの雑踏に向かった。
妻は絨毯売り場に座り込んでしまい、長い時間をかけて、応接間に轢くべく小さな絨毯を買った。私は何軒かで小さなアンモナイトを買い、チベットのククリを1本手に入れた。息子Jの土産に古い三味線のような楽器を、かなりの値段交渉の末買った。
アンモナイトは石の為重く、絨毯は嵩張る為、ひとまずホテルに荷物を置きに帰ることにする。雨が降ってきた為、止むのを待って、サロウザさんも一緒に自転車を返しに行く。
今晩の夕食を食料売り場で買って、いざ帰ろうとすると、雷を伴った、雨脚の強い夕立となった。真っ暗の中を、雨でびしょびしょになりながら、走ってホテルに帰った。
晩御飯は日本から持ってきた、お茶づけや、さっき買ったカップラーメン等であった。大変美味しかった。明日の朝は4時起床の為、荷物をある程度纏めて早く寝ることにした。

5月4日、早朝4時半、真っ黒の中サランコットの丘目指して、ホテルを車にて出発した。
アンナプルナやマチャプチャレを見る場所として、サランコットの丘はポカラからのハイキングコースとして有名である。ペワ湖から北を眺めれば、ぴょこんと突き出た丘がサランコットである。今日の夜、ネパールを発つ為時間が無く、丘の麓まで車で行くことにする。道中は暗く何も見えなかった。車を止めて歩き出す。昨夜降った雨の為、今日は良く見えるはずとサロウザさん。道の途中に家があったが閉まっていた。
途中の展望の開けて場所に着くと、神々の頂が見えるではないか。眠い目をこすりながら、早起きして本当に良かったと思った。サランコットの丘の頂上には、既に何人かの人々が、日の出を拝む為、待機していた。
正面に尖ったピラミッド山容のマチャプチャレ(6997m)、左側にはアンナプルナ南(7219m)、その後ろにアンナプルナT(8091m)、マチャプチャレのすぐ右側にはアンナプルナV(7555m)、その右少し離れてアンナプルナW(7525m)、その横がアンナプルナU(7939m)。アンナプルナ山系がはっきりと目の前に姿を現しているではないか。感動の一瞬。妻や娘も興奮してシャッターをパチリパチリ。 ずっと右側に、日本人が初登頂したマナスル(8163m)が遠くに霞んで見えていた。小さい頃、ヒマラヤとはエベレストの他には、このマナスルだった。
西側には霞んではいるが巨峰ダウラギリ(8167m)も見えていた。
東の空から太陽が素早く飛び出し、山々が赤く染まったと思ったら、アンナプルナ山脈は薄く霞んでしまった。
帰りに途中の茶店でミルクティーを飲んだ。美味しかった。チベット人の店屋で妻は土産の簡単な織物を交渉。しかし値段が折り合わず決裂。私は小さなアンモナイトを一つ買った。8時ごろにホテルに戻る。山々を見られて本当に良かった。
思い残すこと無くポカラを後にし、カトマンズに戻る。
午後の自由時間には、パタンに住んでいるサロウザさんの奨めによる、パタン寺院見学とする。
ゴールデン・テンプル等いくつかの寺院を参拝し、20m程の山車の大きさに驚き、土産物屋でヒマラヤが描かれたカレンダー(2000年もの)、タライ(ネパール南部の民)の素朴な絵を買い、雑踏の中を歩き、半ば道に迷いながらホテルにたどり着いた。
今回の旅ではカトマンズよりパタンを歩き回ったようだ。>br> 夕食は豪華な魚料理だった。しかし量が多すぎて食べきれなかった。
荷物の整理をし、午後10時ごろヒマラヤ・ホテルを後にして空港へ行く。税関に時間がかかり、休憩することも無く、ロイヤルネパール航空で日本に向けて飛び立つ。

5月5日、昼前に関西国際空港に到達。息子に電話し、生駒駅まで迎えにきてもらう。ジャスコでうどんを食べて我が家に帰る。 5月5日今朝の「朝日」の朝刊を見て驚いた。なんとジョージ・マロリーの遺体がエベレスト山中で米国の捜索隊によって見つかったとのこと。
私達がシャンボチェの丘でエベレストを見、サウスコルの向こう側で行方を絶ったマロリーを思い出していた頃、彼らを探すべく必死の捜索が行われていたとは。
この旅がまさしく「神々の山嶺」で始まったことを思い出しながら、見えぬ糸でヒマラヤに手繰り寄せられたような不思議な因縁を感じた。
もしカメラや日記などが見つかれば、同峰の初登頂の記録は大幅に塗り替えられる可能性も出てきた。果たして「エベレスト最大のミステリー」が解明されるかどうか。
マロリーが登頂後に遭難したとすれば、53年にネパール側から登頂したエドモンド・ヒラリー卿の記録を30年近く更新する。ロイター電によると、ヒラリー卿は「仮に、マロリーの初登頂が証明されても、私は喜んで事実を受け入れる」と話している。先ほどまでネパールにおり、クムジュン村等エベレスト街道でのヒラリー卿のシェルパー族に対する心からの貢献を見聞きしてきた私にとって、このヒラリー卿のさわやかな言葉は感動的であった。

後日(ロンドン9日)、英国の日曜紙メール・オン・サンデーはマロリーの遺体の写真を特ダネとして報じた。写真を見ていないので、はっきりしたことは言えないが、記事に寄れば、凍結した岩片の中に頭部を埋め、背中や脚部を露出した姿が生々しく写っていたそうだ。写真は頂上から約600m下の斜面で、私達がエベレストに対面したその5月1日に米国遠征隊が写した3枚だと報じている。
「露出した背中が漂白されて真っ白で、破れたウールの下着、ツイードの上着が当時の登山家を思わすように残っている。腰にはザイル(登山用ロープ)がまかれ、ミイラ化した裸足の左足とびょうを打った登山靴の右足がはっきりと写っている。片足は骨折していた」





















































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