ロシアへの旅









今年は娘の出産と私の職業訓練(ハローワーク主催)の為、1月に朝鮮の新羅に行って以来、世界旅行はどこにも行っていない。
6月末に訓練が終わった翌日から、焼岳・羅臼岳・斜里岳・雌阿寒岳と深田百名山を4つ登った。
ロシアへの旅の準備はまさしく前日だけだった。旅慣れていると言えばそれまでだが、大失敗することになる。
前々日の日に添乗員から最終確認の電話があったが、友人が10人ほど我が家に遊びに来ていてバーベーキューの真っ最中。
昼間からかなり出来上がって受話器を取ったため、女性添乗員を男性と間違えている始末。しかも内容は覚えていなく「分かった、分かった!」と言ったそうな。後から妻に叱られた。「一杯聞きたかったことも聞けなかった!」

7月14日、集合時間11時前に関西国際空港に着いた。添乗員は女性だった。「おかしいな?」と思いながらも、スーツケース2個を預けようとするが、参加人員が多く(一班30人の2班編成)手間取り、終わったら即、搭乗口へと移動した。(いつもの癖で多少の米ドルを両替しょうとは思っていたが、時間が無かった為なんとかなると円だけ持っていった)、
エアロフロート・ロシア国際航空で午後1時出発。時差は5時間。約10時間でモスクワ着。現地時間は夕方の6時だったが、まだ昼間のように明るい。

空港で円からロシアの通貨ルーブルに両替しょうとするも出来ず。添乗員はホテルなら出来ると言ったのでバスに乗る。
空港到着からバス乗り込みまで3時間もかかった!
ホテル「イズマイロボ」に着き、両替しょうとするもやはり円は出来ないとのこと。「明日からトイレは5ルーブル必要」と添乗員のN女史は平然と皆に告げる。(普通なら「ホテルでも出来ないなら小銭はなんとか私が立て替えますから」ぐらい言うもんだ)
私は両替出来ないので「なんとかして欲しい」と頼むが、米ドルを持ってくるのは常識で、「日程表の案内」に書いてあったと口にする。
私は日程表もまともに見ていなく、まして最終確認も酔っ払っていて満足に覚えていない為、小さい声ながら「じゃー最終確認でその旨も言われたのですね。私はちょっと酔っていたもので」と言ったら、「それは言っていない」との話。日程表には「米ドルが便利だ」と書いてあるだけ。しかもそれは共通仕様書だ。「それなら何故関空で確認しないのか」あまりにも不親切ではないか。さすがに妻も怒って私と一緒に抗議する。現地案内人の女性が「それはお困りでしょう。明日何とかしますから」と言ったので納得。
翌日からのバスの座席も「お好きな所へ、その日の気分で座ってください」などと無責任なアナウンスをする始末。
この女性添乗員は皆からも同じような感じを持たれていた。親切心・心使いが欠如している。私はこれまで数多くの添乗員に会ったが、飛び抜けて最低の添乗員であった。(旅を楽しいものにする為、この女性のことは無視することにした)

夕食はおにぎりの弁当だった。妻はバスの中で、私はホテルで食べた。ロビーで延々待ち、部屋に入れたのは11時過ぎ。ホテルは三ツ星で設備はあまり良くなかった。部屋はむっとしていて、「クーラーは?」と聞くと「無い」とのこと。一般的にはロシアのホテルには必要が無い為か備え付けていないとの話。(私の勉強不足)。バスに湯を入れて荷物整理していると、何やら音がする。風呂場を覗くと便器の回りも床は水だらけ。下の階に漏ったら大変と妻と二人でタオルを使って急いで水を吸い上げた。2連泊なので次の日に良く確認すれば、バスの湯を流すだけでも床は水だらけ。
「触らぬ神に祟りなし」とばかり、この件は誰にも言わなかった。

7月15日(月)朝バイキングの朝食を食べて、終日のモスクワ観光に出かける。バスで両替の為「みちのく銀行」に行く。モスクワではここだけが円と両替出来るそうだ(パスポートも必要)。何やら寺院の再建に多額のお金を寄付したそうで、モスクワでは最も有名な日本の銀行だ。北の国とロシアを結んで「ムネオ」を思い出したのは私だけだったろうか?
1米ドルは30ルーブル、1ルーブルは4円だった。1米ドルは120円というところか。

まず最初に訪れたのはクレムリンと「赤の広場」。クレムリンとはもともと城塞を表すロシア語で各都市にもあった。
モスクワのクレムリンは巨大な権力を持っていたツァーリ(皇帝)の居城として繁栄してきた。モスクワ川沿いの高台をとりまく赤い城壁の内側には、おとぎの国のような建物が所狭しと聳えていた。
最初にクレムリンが目に入ったとき、さん然と黄金色に輝く姿はディズニーランドのようだった。ここが社会主義国家の最高権力機構だったとは思えない。今はロシアの大統領が居り、その主はプーチンだ。
クレムリンの北東の赤い城壁と、赤レンガ造りの国立歴史博物館、重厚なグム百貨店、ねぎ坊主のワシリー聖堂に囲まれた「赤の広場」は石畳の73000平方米の広さを持つ。
「赤の広場」という響きから受ける威圧感は今はもうない。レーニン像こそないが、広場の一角には「レーニン廟」があり、遺体を見る参拝客で賑っていた。モスクワ最大の百貨店グムの窓から「赤の広場」の正面に「レーニン廟」が見えたときは、資本主義の最先端をいっているようなショッピングセンターとレーニンの取り合わせに歴史の皮肉を感じた。

クレムリンの色とりどりの建物を見学し、ボルシチとピロシキの昼食を食べた。ロシアのお酒の飲み方として、ワインなら最後までワイン、ウォッカならウォッカと言われていたので、私はビールとした。今回の旅中、食事時には生ビールを飲み続けた。
いつもは私の体を心配して(?)文句をいう妻も、旅の最中は黙認。この状況を利用して多いにお酒を楽しんでいる。
ロシアの生ビールの大は日本の中と大の間くらいだった。一杯50ルーブルから150ルーブルの間の値段だった。外国製が高く、ロシア製が安かった。もちろん私はロシアの生ビールを選んだ。

昼からはチャイコフスキーの「白鳥の湖」のモデルの湖を見たり、モスクワ大学の偉容を眺めた。この大学は日本の東大とのこと。実は私たちのロシア人の案内者である愛称「愛子さん」はモスクワ大学の英文科卒だそうだ。
てきぱきと判断し、ジョークを交えながら日本語で説明するこのロシア女性は、今は観光客のガイドとなっているが、この10年間の激動のソ連とロシアにおいて彼女なりの葛藤があったのだろう。

夕食はビーフストロガノフ(ウラルの塩の大王である大財閥の名がついている)を食べて、サーカスを見に行った。ボリショイサーカスでは無かったが、今のモスクワではそこより技術が高いと評判だそうだ。この人たちがオリンピックに出場したら、みんな優勝してまうのではと思った。犬とか馬そして熊まで参加してのサーカスは理屈ぬきに面白かった。
この時期のモスクワは白夜で夜の11時ごろまで外は明るかった。

7月16日(火)、モスクワから北東方面に12から18世紀のロシア正教会の美しい寺院が円形に点在する。その「黄金の環」と言われる地方への観光が今日の予定。
まず最初にセルギエフ・バッサートに行った。町の中心にはセルギエフ大修道院があった。16世紀に築かれた城壁に囲まれている。
数々の教会があるが、中央のウスペンスキー大聖堂はイワン4世(雷帝)の命によって建てられたらしい。たまねぎ型をした4つの青いドームの中央に金色の大きなドームがあり、まるでおとぎの国のようだ。ロシアの正教会の建物はヨーロッパのそれと中央アジアのイスラムとの混血のような感じがした。
この大修道院内に一昨日届いたばかりの大きな鐘が二つあった。スターリンの宗教弾圧で1930年に壊され、今回復元されたそうだ。35tと27tで大きかった。(現地では何故か説明が無かったが、日本に帰国してから22日の「朝日新聞」にこの鐘のことが載っていた。この鐘にはプーチン大統領の名が刻まれているそうな。ロシア正教会はロシア皇帝の名を刻む革命前までの伝統にならい大統領の「治世」を永久にとどめることにしたらしい。)
ここセルギエフ・バッサートは素朴なロシア民芸品マトリョーシカの産地らしく、妻は小さなそれとターニャという抱っこ人形を孫娘の土産に買っていた。

そこから延々とバスに揺られウラジーミルに向かった。森の中の一本道が続いた。町が近づくと路の両側には白樺の木とナナカマドの木がずっと続く。ロシアではこの白樺が日本の桜に当たるらしい。又、ナナカマドの実はジャム等に多いに利用しているそうな。
両側の並木の向こうはどこまでも続く草原である。ニュージランドのように羊等の家畜は殆ど見かけなかった。
道筋ではダーチャという小さな素朴な別荘が目に付いた。これらは1960年代に時のソ連政府がほとんどの労働者に貸し与えたらしい。1軒約600平米あり、小屋は手造りで建て、庭で野菜・果物等を栽培し自給するよう奨励したらしい。
ソ連時代はすべての土地が国有で、不動産という商売が無く、この10年間で殆どが民営になったそうな。これらのダーチャも個人が国から安く買い取ったそうだ。
社会主義国ソ連がロシアという国になり、その実態はどうか興味がある。表面上見る限りロシアは資本主義国家を目指しているようだが、ともすれば帝政ロシアに逆行しているかのような印象を受けた。
ロシアの国民がどのように感じているか本当のことは分からないが、言葉の端ばしに「ソ連時代は家賃は200〜300円で、教育費は全て無料だった。女性も男性と同じだった」という感想が感じられた。
今は家賃は月収の2〜3割で、1軒の家を買おうとすると年収の数十倍で手が出ないらしい。
因みにロシアの平均的な労働者の月収は1〜3万円らしい。
ウラジーミルは人口約32万人の大きな町だった。町の西方にある「黄金の門」等を見学し、スズダリに向かった。
スズダリでは「ツアーセンターホテル」に泊った。夕食はきのこの壷焼きで美味しかった。

7月17日(水)、モスクワの北東220kmにあるロシアの古都スズダリ。化石のごとく残っている50近くの修道院や教会。町そのものが博物館でありながら、私たちの郷愁を誘うような田園風景。半日歩き回って今回の旅で最も印象に残った。
スズダリにも「クレムリン」はあり、又小さいながら「赤の広場」もあった。そしてそこにはなんとレーニン像が倒されもせずあるではないか。
人口3万ぐらいの小さな町ではあるが、モスクワより古く、すべての歴史を包み込んだような優しさと暖かさがあった。
昼食のシベリア風水餃子ペリメニを食べて又モスクワへ戻った。
モスクワでは「赤の広場」のグム百貨店を自由行動、歩行者天国の「アルバート通り」で屋台の土産物屋を冷やかした。小さな陶器や風景画を土産に買い、ロシアの実際の生活を少しだけ垣間見た。
そして夕食にロシア風串焼き・シャシリクを食べて、深夜レニングラード駅から寝台特急にてサンクトペテルブルグへ向かった。
寝台車は二人用のコンパートメントで狭いながら快適だった。

7月18日(木)、前夜12時にレニングラード駅を発車した寝台特急「赤い矢」は午前8時にでここサンクト・ペテルブルグのモスクワ駅に着いた。ヨーロッパの場合、フランスでもそうだったが、駅の名前は行き先の地名だ。(モスクワのレニングラード駅は名前を変更していない?) サンクト・ペテルブルグは、フィンランド湾に流れ出るネバー川のデルタ地帯に発達した町で、人口は約470万。モスクワの約半分だ。支流や運河を含めると65本の川と100以上の島がある。これらが365の橋によって結ばれ、「北のベニス」とも呼ばれる水の都だ。又、公園と広場、そして宮殿跡も多いことから「北のパルミラ」とも呼ばれている。
ロマノフ王朝の舞台がピョートル大帝によってこの地に移されてから、近代ロシアの発展を導く首都となった。ヨーロッパ文化へ目が向いた結果、モスクワからここペテルブルグへ都を移したものと思われる。
サンクト・ペテルブルグ、ペテログラード、レニングラード、そして再びサンクト・ペテルブルグと変わった町の名をロシア人はどのように感じているのか。案内のガイド氏の話であるが、「レニングラードの名にに愛着を感じている市民が殆どだ」。第2次世界大戦の時、ナチスドイツの猛攻をレニングラード市民は100万人の犠牲を出しながら、1000日間立てこもり遂に勝利した輝ける過去がある。その為、レニングラード市民はロシアのどこへ行っても国民の賞賛と尊敬を受けていたらしい。
ガイド氏続けて曰く、「しかし10年も経てば、若い人たちは今の名に馴染んできたみたい」。

直ちに連泊の「プリバルチスカヤ ホテル」にチェックインした。ここは4つ星だ。フィンランド湾に面している。設備も良い。クーラーもある。ここでバイキングの朝食を食べて、町の市内観光に出た。
まず最初は「エカテリーナ宮殿」だ。エカテリーナはドイツ人で、ピョートル大帝の孫のピョートル三世の妻であったが、無能な夫に代わって自ら女帝エカテリーナ二世となった女傑だ。さほど美人でなかった彼女は猛烈に勉強し絶対的な地位を築いた。
この宮殿はロココ様式の正面や、内装が見事だ。各部屋は、柱の色によって「赤柱の間」、「緑柱の間」と呼ばれていた。中でも「琥珀の間」は素晴らしかったらしいが、ナチス・ドイツが撤退したときには何も残っていなかったらしい。
フランスののベルサイユー宮殿を意識して造ったらしいが、私の感じではフランスのそれより小ぶりだが、豪華な調度品が保存されている。

昼食には、ロシア風スープのサリャンカを食べた。午後は聖イサク寺院、ピョートル大帝の騎馬像など見学した。
ネバー川の川幅が最も広い所に「兎島」がある。ここにペテルブルグの核となった「ペテロパブロフスク要塞」がある。この城壁の外側で、川岸一帯の芝生は短い夏の太陽を浴びるため日光浴を楽しむ人達で一杯だった。殆ど裸だったが、良く見えなかった。
又、川岸には一隻の「巡洋艦オーロラ」が繋がれていた。この船こそ1917年のロシア革命の時、始まりの合図として「冬の宮殿」に向けて発砲した船だ。今は「海軍中央博物館分館」となっている。又、この船は1905年の日露戦争で日本軍の砲撃を受けたらしい。
その後、ネバー川クルーズを楽しんだ。
明日見学予定の「エルミタージュ美術館」の前から乗船した。川から見る歴代ツァーリの住まいであった「冬の宮殿」は川面に影を映し、薄緑の外壁は他の建物群を圧倒した美しさだった。
サンクト・ペテルブルグの目抜き通り「ネフスキー大通り」を散策した。作家ゴーゴリは「ネフスキー大通り以上に素晴らしいところはない」と絶賛し、「ネフスキー通り」という作品を書いたらしいが、私はまだ読んでいない。

7月19日(金)、今日は午前中がピョートル大帝の「夏の宮殿」観光。午後が今回ロシア旅行の最大の目的だった「エルミタージュ美術館」観光だ。
「夏の宮殿」ペトロドバレェツ(ペテルホフ)はフィンランド湾に沿って、ペテルブルグから少し西側に行った所にある。
「下の公園」と「上の公園」からなり、その総面積は1000ヘクタールという広大なものだった。
「ロシア芸術の真珠」ともいわれる下の公園は、彫像と噴水が素晴らしかった。宮殿内部もロマノフ王朝の贅を尽くした内装だった。
その宮殿に行く道筋に大きな建物が、下水道施設が、公園が造られていた。ガイド氏の説明では、着工してまだ4ヵ月しか経っていないのにこれほど進捗しているのはここロシアでは珍しいとのこと。
人はこの現代の大施設を「プーチン宮殿」と呼んでいるそうな。ガイド氏は「これだけの物を作る金があるなら、医者・弁護士・学校の先生(ガイド氏の本業)の給料を上げて欲しい」言っていた。
この宮殿のことといい、鐘の銘のことといい、プーチンはエリツィンと協力して社会主義ソ連を倒し、ロマノフ王朝の残党(モスクワ・マフィア?)と共に資本主義の共和国でなく、プーチン帝国を夢見ているのだろうか?

昼食は名物の魚のスープ・ウハーであった。これまで食べている限るロシア料理は全て美味しかった。大抵幾つかの国の料理には「口に会わない」と言って残す妻も、今回のロシア旅行では「美味しい、美味しい」と言ってみな食べていた。
いよいよ昼からは憧れの「エルミタージュ美術館」だ。少し興奮する。
ロシアが世界に誇る超一流の美術館。美術館は「冬の宮殿」と4つの建物が廊下で結ばれて構成されている。部屋をつなげると全長は27kmにも達するそうだ。半日で全部見れる分けがない。大英博物館やルーブル美術館にも劣らない数々のコレクションは300万点。
ガイド氏の案内で主要な絵画等の美術品を見て回る。足が棒になるとはこのようなことだ。
レオナルド・ダ・ビンチの「リッタの聖母」・「花を持つ聖母」。ラファエロの「聖家族」。ミケランジェロの作品。エル・グレコの「使徒ペトロとパウロ」。レンブラントの「ダナエ」・「放蕩息子の帰還」。モネ・ミレー・コロー・ルノワールといった印象派。セザンヌ・ゴッホ・ゴーギャン・ドガ・クルーベとよく集めたものと感心する。マチスの大作「ダンス」も身近に見た。もちろんピカソも青の時代を中心として36点も展示されていた。私はゴーギャンの「果物を持つ女」が印象に残った。
又、ロマノフ王朝の皇帝・女帝達の肖像画、特にカテリーナ二世の威厳に満ちた意思の強そうな肖像に惹かれた。

このロシアのエルミタージュの財宝は、出来たばかりのソ連を財政的に大分助けたらしい。ガイド氏の話では、今世界一はルーブルだがもうすぐエルミタジュが世界一になるとのこと。各国に散らばったかってのエルミタージュのコレクションは、ロマノフ王朝一家によって既にかなり買い戻されているらしい。
今回のロシアの旅で、ロシアの持つ資源・大きさ・不気味さは痛感した。決して遅れた馬鹿にした国ではない。
まだまだ手付かずのシベリアの大きさは、アメリカ合衆国とヨーロッパを合わせた規模だ。しかも地下には金・銀・鉄・石油・石炭・天然ガスと計り知れなく眠っている。
極東の漁獲量だけでもロシアの国家予算に匹敵するらしい。今、ロシアの隠れた宝を目指してロマノフ王朝一家はもちろんのこと、全世界の財閥・有力者がモスクワに集まってきている。
日本もすぐお隣の隣国として、ロシアとの適正な関係を見直さなくてはならないと思った。「ムネオ」に任せていたような単純な発想では、わが国はいつまで経っても二流国としての評価しか得ないだろう。
いつまでもアメリカ一辺倒でなく、地球上の四分の一が住む「中国」と、この資源世界一の「新世ロシア」との大人の外交を展開せねばならないだろう。

夕食はロシア風ホットケーキ・ブリヌィだった。いつものごとく生ビールを飲んだ。
夜はバレー「ジゼル」を見た。生まれて初めての正式なバレー鑑賞だ。私一人なら決して行かないが、妻がどうしても見たいというのでやむを得ず付いて行った。多分酔いも手伝って眠るだろうと思っていたが、とんでもない。迫力あり惹き付けられた。「ブラボー!」の拍手が続いた。
「若い娘が結婚を前にして死ぬと、ウィリーという精霊になり、真夜中に墓から抜け出して踊り狂う」という詩人ハイネが書いた物語だ。 夜11時を過ぎていたのに、いつものように空はまだ明るかった。

7月20日(土)、いよいよ帰国だ。空路モスクワへ行く。モスクワでの乗り継ぎ時間が10時間ほどあるので市内観光をする。
12世紀以降のロシア美術の名作と言う名作が収集されている「トレチャコフ美術館」を見学した。素晴らしい展示であったが、昨日の今日。足も疲れ、何よりも美術品に堪能していた。見学が終わったときは正直言ってほっとした。
その後、モスクワの地下鉄に乗ることとなった。地上から50m下にエスカレータで連れて行かれた。日本のそれと比較して3倍のスピードはあった。駅は大理石で装飾され、まばゆいばかりの美しさだ。第2次世界大戦前の1935年に当時世界一を誇るモスクワの豪華な地下鉄が完成していたのだ。かってのソ連領ウズペキスタンのタシケント地下鉄でも感じたことだが、当時のソ連は国家的威信をかけて地下鉄を作っていたようだ。この地下鉄建設の指導者が、あのKGB創設者のカガノビッチだった。スターリンの義弟でソ連でのNo2。実行担当者がフルシチョフ、監督官はブルガーリンだったそうだ。
ロシア崩壊の時、テレビで何回も映されていたKGB本部前の像が民衆に倒されていたのは、レーニンの像でなくこのカガノビッチだった。この地下鉄の駅ホーム内にレーニン像があった。
実はこの地下鉄の下にさらに大きな地下都市が建設されているという。3万人の要人が生活出来るようになっていたというが、見たわけでないので本当のことは分からない。

夜の9時にモスクワを飛び立って、21日(日)昼の12時に関西国際空港に帰ってきた。
今回のロシアの旅は、ロシア正教の華麗な教会とロマノフ王朝の贅沢な宮殿が主だった。しかしそれらの見学の合間に感じた新生ロシアの現状、ソ連の崩壊から10年経った今の国民の意識、そしてレーニンに代表されるかっての社会主義のありかた。 いずれにしても今後ロシアは注目せねばならないと強く感じた。

(2002.7.25)

ロシア(2002,07,25 )































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