クロアチアの旅
日本人にとって最も馴染みの薄かった国であったのに、ごく最近になって急に名前の知られるヨーロッパの国になったクロアチア。
サッカーのワールドカップ本大会で日本代表が2回も対戦相手になってしまったからだと思う。
この国にはユネスコの世界遺産もたくさんあり、クロアチアのアドリア海沿岸でも一番人気のドブロヴニクは「アドリア海の真珠」と言う美しい別名を持っている。
その美しさに関しては、「皮肉屋」・「毒舌家」として世に知られるバーナード・ショーがなんと「ドブロヴニクを見ずして天国を語るなかれ」と最大限の賛辞を贈っている。又、彼は「町は絵画のようで、女性は映画スターのようだ」とも絶賛している。
この国は旧ユーゴスラビアの一員で、内戦時の「サラエボ爆撃」等で危険な地域とのイメージが強すぎた。
この国が世界地図でどの辺りにあるかと言えば、イタリアのベネチアからギリシアにかけてのアドリア海東海岸線の国々とも言える。
私たちの海外旅行も有名な知られた国や場所はかなり訪れ、行きたい場所は無名な辺鄙なところか、危険地域かになってきた。
最近のクロアチは治安も良く、最も人気のある場所とのことで、阪急トラッピクスに申し込んだ。
2009年3月29日(日)、関西国際空港をイタリ航空AZ−0793にてローマに向かって飛び立った。
13時間飛んで、ローマに着いたのは、夜の9時半ごろだった。
そこからイタリア南端のトリエステまで飛ぶのだが、その飛行機の都合で2時間以上も待たされた。
陽気なイタリア人は早速待合室で音楽会。
やっと着いたトリエステは深夜、そこから約140km離れたスロヴェニアのブレッドまでは専用バスで移動。
途中にイタリアからスロヴェニアの国境があったが、同じEU加盟国ということで、殆ど検査なしに通過した。
到着したホテル「クリム」では、疲れきってバタングー。
3月30日(月)、今日の予定は、アルプスの瞳ブレッド湖観光だ。
朝目が覚めたら生憎の雨。バイキングの朝食後、9時ごろ出発。この地方は古くからハプスブルク家のリゾート地でもあった。
アルプス山系の東端、ユリアン・アルプスに位置するブレッド湖は、宝石のように美しかった。
山の緑を映し出す水面は青く、輝き、その周りに古城、小さな教会などが彩りを添えていた。
小島の高台にある聖マリア教会にはボートで行った。
聖マリア教会はスロヴェニア人憧れの結婚式場らしい。しかしここでの結婚式には、大きな試練が花婿を待ち受けている。島の船着場から高台にある教会まで続く百段の階段を、花婿は花嫁を抱きかかえて登らなければならないそうだ。
予約が取れると、花婿は体を鍛え、花嫁はダイエットに励むとか。
教会内には「望みの鐘」があり、ロープを引っ張って、鐘を鳴らしたが結構難しかった。小さな音がしたので、多分私の願いは叶えられるだろう。
断崖絶壁の上に立つブレッド城からの風景は素晴らしかった。
昼食は「ターキー鶏のカツ」だった。
そこからヨーロッパ最大規模の鍾乳洞で有名なボストイナへ向かった。
スロヴェニアは、石灰岩の大地が広がっており、この鍾乳洞は石灰岩をビフカ川の流れが10万年かけて侵食したことによって形成された。
全長27kmのおよぶ鍾乳洞は、ヨーロッパで最大、世界でも第3位の規模を誇っている。
中の景色はカメラ禁止で、写真はないが非常に素晴らしいものだった。
私がかって見学した鍾乳洞の中では圧倒的な規模と素晴らしさだった。
トロッコと徒歩での見学は、有意義であったが解説が英語なので良く分らなかった。
大概の海外旅行では、日本人のガイドがいるのだが、この地方にはまだ少ないらしい。
スロベニアからクロアチアの国境も又簡単だった。
クロアチアはまだEUには加盟していないが、ちかじか加盟するとのことで親戚付き合いみたいだ。
本日の宿はクロアチアのリゾート、イストラ半島の「オパティア」だ。
オパティアは標高1398mのウチュカ山の南麓に位置し、冬も寒気が遮られ、気候が温暖な場所として知られている。
ウィーンからもアクセスが良い為、ハプスブルク家の多くの貴族がこの地に別荘を建てた。
海辺に漂うエレガントな雰囲気から「クロアチアの貴婦人」と呼ばれている。
3月31日(火)、朝グランドホテル前を散歩する。アドリア海を見渡せる場所まで足を伸ばした。
今日は約360km南のシベニクまでの移動日。専用バスで横になって寛ぐため、一番後ろの席を確保した。
海外旅行のとき、皆は車酔い防止の為か前の席に行きたがる。私たちは出来るだけ後ろの席に座ることにしている。
気の利いた添乗員は、毎日席を順番に替わるようにそれとなく注意しているが、身勝手な人もいる。
アドリア海を見ながらバスは南へ南へと走る。
途中の休憩所には動物の剥製が一杯飾ってあった。
この地方は自然豊かな森に囲まれているらしい。
オレンジ色の屋根と石畳の路地が続くシベニクの街へは昼過ぎに着いた。
昼食はイカフライで、昼食後は市内観光だった。
シベニクはダルマチア地方独特の美しい旧市街地が残る港町である。
一歩旧市街地に足を入れると、中世をタイムカプセルに閉じ込めたような街並みが広がっていた。
聖ヤコブ大聖堂は共和国広場に面して立っていた。
レンガや木の支柱をまったく使わず建てられた石造建築の教会としては世界で一番大きいらしい。
この教会の外壁には72人の一般市民の顔が彫刻されていた。髭を生やした人、帽子やターバンを被った人、知性的な人、ずる賢そうな人で見飽きなかった。
観光後、運河で囲まれた古都トロギルへ移動した。宿泊は”ヤドラン”というホテルだった。
4月1日(水)、今日の予定は、トロギル観光後世界遺産スプリットへ行き、そこから国境を越えボスニア・ヘルツェゴビナの街ネウムに立ち寄り、アドリア海の真珠”ドブロヴニク”へ向かう。



トロギルは紀元前3世紀にできたギリシア人植民都市が町の始まり。11世紀には司教区ができ、ハンガリー王の支配下に入るが、自治権を持つ都市として繁栄した。その後は1420年から1787年までヴェネツイア、19世紀にはハプスブルグ家に支配された。
周囲は城壁に囲まれた狭い街だった。



扉に彫られたアダムとイブの像がある”聖ロヴロ大聖堂”は圧巻だった。
私だけはこの大聖堂の屋上まで登った。上からは街全体が眺められた。

トロギルからスプリットは近かった。スプリットはアドリア海沿岸の中心都市でクロアチア第二の都市。293年にディオクレティアヌス帝が神殿を建てたところの近くにあった主要都市サロナが異民族の侵入により放棄され、市民が宮殿の周囲に移住してきたのが町の始まり。12〜14世紀に自治都市として繁栄し、その後ヴェネツイアの支配下に入った。
ディオクレティアヌス宮殿は旧市街と同化していた。宮殿の一部は民家やカフェになっていた。地下宮殿もあり土産物屋が軒を連ねていた。私も小物を買った。列柱広場にはエジプト・スフィンクスもあった。
魚市場ではアドリア海の魚が一杯売られていた。
スプリットは暑かった。自由解散となり、ニンのグルグル司教像やジュピター神殿を見学した。
昼食は”フイヤベースの煮魚”だった。美味しかった。
ドブロブニクに行く途中にボスニア・ヘルツェゴビナのネウムという街に寄った。この国は物価が安いということで、このネウムの街のスーパーで買い物をした。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの爆撃の記憶があるが、この国はクロアチアより豊かな感じがした。
夕方にドブロブニクに着いた。街を目の前にして有名な写真の撮影ポイントにバスは停まった。
そこからの眺めは絵の様に美しかった。真っ青なアドリア海に向かって突き出し、溢れる陽光の中に輝いていた。
ドブロブニクのホテルは”コンパス”だった。
4月2日(木)、今日は今回のクロアチア旅行の最大の目的であったドブロブニク観光だ。
”アドリア海の真珠”と呼ばれ、ヴェネツイア共和国と覇権を争った海洋都市。
クロアチアの南に位置するアドリア海に面した町。
西ローマとビザンチンの境目に位置し、ヴェネツイアとオスマントルコという強国に囲まれながら、この街は長い間独立を
保ってきた。16世紀にバルカン半島の地図がオスマントルコ一色で埋め尽くされながら、まるでトルコの中に飛び地のように独立を保ち、生き生きと交易を続けた。まさに奇跡の独立共和国ドブロブニクだ。
紺碧の海と空をバックに海に食い込むように張り出す旧市街地。茜色をした屋根瓦を載せた象牙色の家々がびっしりと軒を連ねていた。
私たちの見学はまず旧市街地西側のピレ門から始まった。
城壁の規模は高さは最高で25m、厚さは3〜6m、延々2kmにわたって旧市街地を囲むように続いている。
城壁はまるでよそ者を威嚇し、徹底的に拒絶しているように見えた。
ピレ門の上で町を守っているのがドブロブニクの守護聖人ヴラホだ。
夜は城門は閉ざされ、鍵は総督が保管したそうな。

城門の傍に大きなドームをつけたオノフリオ大噴水があった。岸壁の上に建設され、川がない中世のドブロブニクでは水の確保が深刻な問題だった。ラグーサ共和国議会はナポリの建築士オノフリオに依頼して上水道を建設した。今も現役で役目を果たしている。
町の中心に東西にプラツァ通りがあり、この町のメーン・ストリートである。
オノフリオ大噴水がある広場に面して、フランシスコ修道院があり、中にはロマネスコの回廊があった。
回廊に面して薬局があり、創業は1317年らしい。現存するヨーロッパで三番目に古い薬局と言われ、実に700年近くも市民の健康管理に寄与してきた。



長男の嫁が薬剤師の為、土産にクリームを買った。
古くから衛生観念の発達したドブロブニクには検疫所もあり、非常に進んだ近代国家でもあった。何でも奴隷解放も中世に実施していたらしい。


ここが商業都市であった証は、意外な場所に残っていた。スポンザ宮殿前のルジャ広場に面して、剣を持つ騎士ローラント像が立っている。このローラントの右腕半分の長さ51.2cmが”ドブロブニクの肘”と呼ばれ、当時の商業取引の長さの単位の基準になっていた。


私たちは自由時間に城壁の上を半周した。アドリア海とドブロブニクの街は印象深かった。
昼食は”リゾット”で、そこからプリトヴィツェ近郊のコレニツアまで約460kmの長い長いバスの旅だった。
ホテルは”マコーラ”で夕食はチキンだった。
4月3日(金)、今日は世界遺産プリトヴィツェ湖群国立公園だ。全部で92の滝と16の湖が段々状におりなす森と湖の景観だ。



私はまだ訪れていないが、東の九塞溝に匹敵される景観らしいが、実際に見て納得できた。




遊歩道と遊覧船での約2時間半の見学は、驚きと感動の連続だった。大自然が長い年月をかけてつくりあげた”芸術作品”{ヨーロッパでもっとも特異」と称されるその景観は格別でした。
エメラルド色の湖と幾つもの滝の連続、自生のクリスマスローズやエリカの群生。


昼食は魚料理であったが、これがめっぽう美味しかった。
昼食後スロベニアの首都リュブリャーナーへ行く。



ドイツ語ではライバッハと呼ばれ、ハプスブルク家の支配が約500年続いた。赤レンガ屋根の家々が並び、緑にあふれる町は、落ち着いたたたずまいを見せていた。3本橋と赤いフランシスコ教会や竜の橋を見ながら、有名な店6セスティカヘ行った。そこで最後の晩餐で牛肉料理だった。


ホテルは”パーク”で今回の旅行のホテルでの最後の晩だった。
4月4日(土)、今日から一路日本へ帰国。リュブリャーナーからイタリアのトリエステへ。そこからローマへ飛び、ローマ発15:00のAZ0892で日本へ飛び立った。機中泊で4月5日(日)の午前10時に関西国際空港に無事到着した。
今回のクロアチア旅行で私の訪れた外国も48ヶ国となった。
一つの区切りとして50ヶ国の外国を目指していた私は次回の海外旅行で望みが叶えられるであろう。
中国のシルクロードは今回の新疆自治区の騒乱で当分お預けとなるだろう。
私はパルミラのあるシリア・ヨルダン方面を旅したいが、イラン情勢でどうなるか分らない。
年金生活の私たちも段々蓄えが乏しくなってきた。
次回から最も経済的な時期になんとかやりくりしながらシルクロードや世界遺産の旅を続けたいと思う。
(記述日2009.7.20)
(掲載日2009.7.22)
終わり
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