黄金のヤンゴン1
今、なにかと話題の多い国である。永く続いた軍政から民主化への動きが活発化されつつある。
日本人にとってミャンマーは”ビルマの竪琴”であり、最近はアウンサンスーチさんの動向にある。
民主化の象徴として今年から国会議員になったからかも知れない。17年ぶりにノーベル賞の授賞式に出席したからかも知れない。
永い軟禁生活からの開放は現代のジャンヌダルクのようだ。
軍政(社会主義?)から民主・自由(資本主義?)への流れはエジプト・チュニジアそしてシリアでの動きと重なってしまう。
日本企業がどっと乗り込む姿は一時の中国のようだ。
天然ガスの産出国として見直されたか。
面積が日本の1.8倍。かってのビルマは今大きく変貌を遂げつつあるように見られる。
阪急交通社(トラピックス)がモニターツアー4日間として「ミャンマー最大都市”黄金のヤンゴン”」を企画したので、4日間なら無理なく日程調整できると申し込んだ。
鎖国状態であった国の実情が知りたかった為、一度は訪れたい国だった。
何かと忙しく、旅の準備に取り掛かったのは前日だった。
普通は訪れる国の旅行案内書類を事前に購入し、少しは予習して行くのが普通だが、今回は本屋にも行っていない。
妻の話だとミャンマーは鎖国状態だったからその手の案内書はないとのこと。このことは旅行中に聞かされた。
7月9日(月)10:30に関西国際空港に集合。普通は前日までにある添乗者の電話がなかったので、阪急トラピックスの係員に聞いてみると、今回は日本から一緒についていく添乗員はなく、現地ガイドのみという。
参加者は16人と聞き、簡単な説明でベトナム航空にトランクを預け、ハノイで乗り換え、ミャンマーのヤンゴンで現地ガイドを探しなさいとのこと。
多分向こうが声をかけてくれるでしょう。
ミャンマーは日本円が通用しないので米ドルに両替した。1チャットは0.1円とのこと。
関西空港内の「金剛」でコーヒーを一杯飲んで搭乗ゲートへ行き、ハノイ行きのチケットを提示して、ベトナム航空VN033に乗り込んだ。誰がツアー仲間かは分らない。
ハノイからヤンゴンへの搭乗券はない。あるのは「チケットお客様控え」だけだ。
この控えは重要だから失くさないようにと注意は受けた。

時間通りに飛行機は飛び立った。案外ベトナム航空はきっちりしているとの印象を持った。
ただかっての中国のように乗務員(税関職員等も)の態度は一般的に横柄だった。
4時間ほどの飛行でハノイに着いた。ベトナムと日本の時差は2時間。ベトナムへの出国は禁止。
3時間半空港内で待機。土産物売店を冷やかしてコーラーを飲んで(1本1米ドル)仮眠して待った。
ミャンマー行きの搭乗券はパスポートを提示して発行してくれた。

16:35のベトナム航空VN957で飛び立ち2時間足らずでミャンマーのヤンゴン国際空港に着いた。
日本との時差は2時間半なので、ヤンゴンの現地時間は18:10だった。
ミャンマーの雨季は5月下旬〜10月中旬なので、飛行機の外側は土砂降りだった。
手続きを済ませゲートの外へ出れば、現地ガイドのマウンマウンウーさんが待っていた。40歳前後の男性だった。
日本に留学していたこともあり、日本語は堪能で会話に不自由はしなかった。
40人乗りの専用バスで夕飯の場所に向かった。私たち夫婦は一番後部席に座った。旅行中いつも最後部だった。
殆どの人たちは前から詰めるので後部はゆったりと使えた。
旅の仲間は年配の夫婦1組と男性4人組、男性2人組み、女性2人組、男性単身2人、女性単身2人だった。

ココナッツヌードルの夕食だった。美味しく頂いた。

ミャンマービールは大ビンで3000チャット(日本円で約300円)で良く冷えており旨かった。
旅行中食事時にはこのミャンマービールのみを飲み続けた。
夕食後、夜の闇に輝くライトアップされた”シュエダゴン・バヤー”を見学。雨に濡れたそれは確かに美しかった。
マウンマウンウーさんの話では、ヤンゴンに来て、この”シュエダゴン・バヤー”を見ない人は居ないと言っていた。
たとえ話として「日本に来て日光を見ない人は居ない」と日本通をそれとなく自慢した。

夜の9時ごろホテル”サミット・パーク・ビュー”に到着。部屋は3階で電気関係をチェックするとソケットは3芯だった。
事前に渡された説明書では2芯と書かれていたので3芯は持参しなかった。
ロビーにガイドの彼を探しに行くが既に居なかった。止むを得ずチャランポンの英語と日本語と手振りと2芯のソケットを使って3芯を借りた。
多分フロントの女性が理解したのは、手振りとソケットの現物だったと思う。手振りは万国共通語と再度認識する。
乗り継ぎや窮屈な座席で疲れきったのか、風呂に入って直ぐに寝てしまった。いつものことながらバタンキューだった。
7月10日(火)、昨晩は早く寝たので朝4時に目が覚めた。風呂を沸かし、洗顔し、電気関係を接続し、快適な宿泊設備を整えた。
7時に1Fの食堂でバイキングの朝食を食べた。私は野菜や果物を普段のように食べたが、一度旅先で現地の水に当たり苦しんだ妻は、火の通ったものしか食べなかった。
今日は昨日の雨が嘘のように快晴だった。出発時間までホテルの周りを少し散策した。

今日一日の予定はヤンゴン市内観光だ。

午前8時に専用バスで向かったのは、巨大な寝仏で有名な”チャウッタージー・バヤー”の見学だ。
裸足になっての見学。色々と説明しながら巨大な寝仏の周りを時間をゆっくりとかけ、色々と説明しながら歩く。




ミャンマーでは馬年とか猿年と言わず、生まれた人の曜日で言うそうな。私たち夫婦は日曜日で神さんはインドの想像上のガルーダだそうだ。
参加者の各人の曜日の仏のところで、祈って水をかけるので時間がどんどん過ぎていく。
マウンマウンウーさんは一生懸命に説明しているので、早く切り上げてとは言えなかった。

もちろん私達夫婦も日曜日の仏さんの前で拝み願い事をした。
次に向かったのは市の中心にある”ヤンゴン市庁舎”と”独立記念碑”だった。



ここで簡単にミャンマーの概要を述べる。
国名はミャンマー連邦。面積は67万7000平方キロメートル(日本より大きい)。人口は約5760万人。
人種と民族は約70%がビルマ族が占め、残り30%を主要な7つの民族が占めている。細かく分けると135にもなる諸民族の国と言われている。
現在の首都はネイビードーで旧首都は今回訪れたヤンゴンである。
宗教は国民の約90パーセントが敬虔な仏教徒である。言語について公用語はミャンマー語。
インド、中国、ラオス、タイと国境を接し、ベンガル湾、アンダマン海に面した広大な国土を持つミャンマー。1948年にイギリス連邦を脱退して独立を果たしました。
アウンサンスーチーさんのお父さんは”独立の父”と呼ばれ、国民に親しまれている。



その後、雑踏にもまれた”インド人街”を散策した。果物や野菜、衣服、日常品が道を閉ざすほど並んでいる。歩くのも困難なような人・人・人。
ここでは何も買わず、アウンサンスーチーさんのお父さんが開設したと言われるヤンゴンで一番大きな”ボージョーアウンサン・マーケット”に行く。
ここで私は趣味で集めているミャンマーの民族ナイフを2本買った。刃渡りが15cm以上は税関で没収されるので小さいのだ。

大きなマーケットで食料や衣類・貴金属(ミャンマーはルビーが有名)民芸品が一杯あった。妻はなにか布を買っていたが、私は土産用に動物の彫刻をした栓抜きを数本手に入れた。

昼食はミャンマー料理だった。旅仲間の男性と話が弾み、ミャンマービ−ル2本を飲んで良い気持ちになった。
昼食後ホテルに戻り、一休みしてから、夕方の観光となった。昼食後休むのはこの国の習慣みたいだ。

カンドーチ湖を散策して、側のレストランで民族舞踊を鑑賞しながら夕食となった。料理はミャンマーのバイキングだった。
ミャンマー人の殆どの女性は顔の頬に何か白く塗っていたが、これはタナカという木を細かくし練ったものらしい。日焼け止めとも皮膚に良いとも言われているが良く分からない。
妻も塗って貰っていた。





お蕎麦のようなものが美味しく、何杯もお代わりし、ミャンマービ−ルを飲んで満足した。
9時前にホテルに戻り、風呂に浸かり、いつものようにバタンキューだった。
(記述日2012.7.13)
(掲載日2009.7.18)
終わり
「海外旅行」ページに戻る