オランダ、ベルギー、モン・サン・ミッシェル(2007.5.12〜5.20)
私たち夫婦の世界旅行は世界遺産巡りがメインテーマだ。
あるテレビ番組でベスト10を発表していた。
1位のペルー・マチュピチュを初め、7つの世界遺産は訪れたが、2位のフランス・モン・サン・ミッシェルと中国の九塞溝とアメリカのグランド・キャニオンは未だだった。
妻がモン・サン・ミッシェルは是非行きたいというので、希望を適えることにした。
いつものように阪急トラピックスの「美を巡るオランダ・ベルギー・モン・サン・ミッシェル9日間」だ。
5月12日(土)、オランダ航空のKL−0868便で、11:10に関西国際空港を飛び立った。
今回の旅行者は総勢26名。添乗員は花木さんという独身女性。
時差は7時間。16:20にオランダはアムステルダムに到着。3人席の為に約12時間の飛行は辛かった。

着後専用バスで飛行場の近所のホテル「スキポート エアポート」にチェックインした。ここは2連泊だ。
部屋は大きく快適だった。陽は未だ高く、外は昼間のように明るかったが、飛行の疲れのためか早々に就寝した。
5月13日(日)、本日の午前中はアムステルダム観光だ。
アムステルダムはオランダの首都であり、産業の中心都市でもある。アムステル川に築かれたダム(堤防)という名前が示すように多くの運河が扇状に広がっている。東インド会社の本拠地が置かれた17世紀には世界貿易の中心として君臨していた。

「アンネの日記」で知られるアンネ・フランク一家がナチスの目を逃れて隠れ住んだ家が、市内最高の高さを誇る「西教会」の直ぐ側の運河沿いにあった。隠れ住んだ家は回転する本棚の向こう側にあった。「裏の家」という。当時のまま保存されていた。



ここでの生活の様子が「アンネの日記」に記されている。私はナチスの組織的・残忍なユダヤ人に対する人種差別を憎む。
同時に日本が行った「従軍慰安婦」や731部隊による人体実験を許さない。
ドイツは今でもナチスに対する追求を止めていないのに、日本はそれらを容認する「靖国派」が首相とは情けない。
戦争の悲惨さと人種差別の実態を見た私は、近いうちにポーランドのアウシュヴィツを是非とも訪れたいと思った。


赤レンガが美しいネオ・ルネッサンス様式の「アムステルダム中央駅」。レンブラントの絵が多く展示されている「国立博物館」。
これらを見学しながら私たちは「ファン・ゴッホ美術館」を訪ねた。

情熱のままに短い人生を駆け抜けた孤高の天才画家「ゴッホ」。
ここで印象に残った絵は、「馬鈴薯をを食べる人々」だった。この絵はゴッホの最初の大きな集団人物画で、この作品の下準備として構成に必要な農民の顔や手など部分ごとにおよそ40点もの習作が描かれていた。
亡き母が一枚の絵を描くために、何枚ものスケッチを残していたことを思い出した。
有名な「ひまわり」・「黄色い家」・「アルルの寝室」・「カラスの群れ飛ぶ麦畑」等100点近くが展示され圧巻だった。
ゴッホの代表作品以外にも、モネ、ロートレック、ゴーガン等ゴッホと親交のあった同時代の画家の作品も展示されていた。




その後「ダイアモンド工房」へも案内されたが、目の保養だけで懐の乏しい私には縁が無かった。
昼食の「ヒュッツポット」をビールを飲みながら食べた後、アムステルダム運河クルーズを約1時間楽しんだ。


午後は自由時間だったが、私たちはオプショナルツアーで「世界遺産ザンセスカーンスとエダム観光」を申し込んだ。
アムステルダムの北約15kmに、オランダらしい風景のザンセスカーンスがある。風車やチーズの製造過程が見学できるチーズ工房があった。



エダムの街並み散策は、イギリスのコッツウォルズを思い出させた。このような街で暮らせたら最高に贅沢だろうと感じた。







歩き疲れたので途中のカフェでビールを飲んだ。
5月14日、今日は美しい花の公園「キューケンホフ公園」と世界遺産「キンデルダイク風車群」観光。そしてベルギーへ入り、ブリュッセル観光の予定だ。

「キューケンホフ公園」はオランダ最大の花の公園として知られ、シーズン中には世界各国からの見学者が絶えないという。
妻はここのどこまでも続くチューリップ畑を見に来たようなものだ。日本からの観光客の殆どが4月〜5月の春なのはそのためだ。
今年はチューリップの咲く時期が早かったらしく、私たちが訪れたこの季節は終わりかけだった。公園内のあちこちでチューリップの花を選定している園芸師を見かけた。



約2時間の園内散策だったが、あちこちの色とりどりのチューリップに妻は感嘆の声を発していた。
園内は広く何回も迷子になりながら、彼方此方移動した。水車を探したが見つからなかった。池では白鳥が泳いでおり、小鳥たちのさえずりが喧しいぐらいだった。




観光後バスで約85km走ってキンデルダイクへ。昼食は「にしん料理」だった。
世界遺産のキンデルダイクの風車群を観光したが、途中で突然嵐と大雨となりバス停の覆いの下に逃げ込んだ。
この時期のオランダは一日のうちに春夏秋冬があるといわれていたがその通りだった。


その後、約144km走ってブリュッセルへ。
ベルギーの首都であり、古くから交通の要所として栄えた。現在はEUやNATOの国際機関の本部が置かれ、欧州の中心都市として機能している。

ブリュッセルの中心地「グランプラス」。17世紀に建造された華麗な建物群が広場を囲んでいた。
フランスの詩人ジャン・コクトはこの広場を「絢爛たる劇場」と賞賛し、フランスから亡命し、広場東側の「鳩の家」に住んでいた文豪ヴィクトル・ユゴーも「世界で最も美しい広場」という言葉を残している。




ヨーロッパ最古のショッピング・アーケードであるギャルリー・サンチュベールを通り、まず小便小僧ならず「小便少女」の像を見学。
このようなものがあるとは知らなかった。さわると幸せになるという「セルクラースの像」をさわり、家族の健康を願った。
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グランプラスで最も華麗な「ブリュッセル市庁舎」。ブリュッセル市立博物館(王の家)。有名な小便小僧。
自由散策後の待ち合わせ場所は、かの有名な「ゴディバ」本店の前だった。
日本の女性たちはチョコレートの最高級品としてに「ゴディバ」に目の色を変えているが、本場のベルギー人はあれは「ベルギーチョコレートではない。アメリカ資本に吸収されたもの」と冷淡だった。

私たちも「ゴディバ」でなく「ガレー」のチョコレートを土産に買った。
今日のブリュッセル2連泊の宿は「ホリディ ガーデン コート エキスポ」だった。昨日のホテルと比較して狭く、私たちは少々不満だった。
5月15日、今日の予定は一日「水の都」ブルージュだ。




この街は独特の雰囲気を持っていた。中世の面影を今に留めている。街そのものが「天井のない博物館」だ。
世界遺産にも登録されている旧市街の中心的存在の「マルクト広場」。ひときは高く威容を誇る巨大な建造物「鐘楼」。白大理石でできたミケランジェロ作の「聖母子像」等を見学。豊かな自然に囲まれた修道院である「ベギン会院」も見学した。
運河クルーズで美しい古都を巡った。





アムステルダムのクルーズとは違い、見るものすべてが美しく自然に溶け込んでおり、建物が個性的で美しかった。白鳥が彼方此方に巣を作っており可愛い雛たちがよちよち歩いていた。
昼食の「ワーテルゾーイ」を何時ものようにビールを飲みながら食べた後、自由時間となった。
私はナイフ等の骨董品を探したかったが、妻が土産にレースを買いたいというのでしょうことなしに付いて行った。
有名なレース店「イルマ」には古いアンティークなレースも売っていたみたいだ。私は店の外でレース編みの実演が面白く見ていた。
小さな女の子が興味深く見入っていた。


その後チョコレートを買いに「ガレー」も覗いた。
あまり集合時間も無く、広場の近くの店で現代のナイフを1本買った。
ブルージュの旅は満足のいくものだった。
夕食はムール貝で大きな器に一杯入っていた。美味しく同行者が残した半分も平らげた。
5月16日、今日の予定は専用バスでベルギーからフランスのパリへ入り、昼食後、名画「睡蓮」の舞台で世界的に有名なクロード・モネの庭園観光だ。
バスで数時間かかるとのことで私たち夫婦はバスの最後尾の席を確保した。普通は長距離のバス移動の時は酔う為に前の席に座りがちだ。
私たちは気兼ねなく横になるためにこの場所を選んだ。作戦成功。約375kmの半日バス旅行は快適だった。
国境は検問も無くあっというまに通り過ぎた。
前日のスーパーで仕入れていた缶ビールを密かに飲む楽しみもあった。




ジヴェルニーはパリから北西86kmに位置し、セーヌ川の流域にある小さな村だった。
印象派画家クロード・モネのアトリエがありことで知られる。
モネはここで、亡くなるまで43年間過ごした
数々の作品を制作した。
セーヌ川の支流から水を引いて造った池には、藤棚のある太鼓橋が架かり、モネの日本趣味をうかがわせた。屋敷には歌麿・北斎等の浮世絵もたくさん飾ってあった。
有名な池には多数の睡蓮が浮いており、庭師が小船に乗って手入れしていた。池の周りの小道には色々な花が植えられていた。
館は緑色で庭園内のベンチ等も緑色に統一されていた。
館や庭は素晴らしかった。


モネの庭つくりに対する情熱を見て、私も獅子ヶ丘の「かわせみ農園」をより良いものに造ろうと思った。
夕食は「ポーク料理」だった。

パリでの宿は環状線の外側の地下鉄8号線の終点駅「バラード」のすぐ側の「ソフィテル パリ ポルト ド セーブル」だった。
部屋も大きく満足した。
5月17日、今日の予定はモン・サン・ミッシェルだ。
何時ものようにバイキングの朝食を食べ、7:30に専用バスで出発。パリから約370km。今日も最後尾の席が空いていた。
天気は小雨で寒かった。




モン・サン・ミッシェルはパリの西のブルターニュ地方にある。
修道院、要塞、監獄とその姿を変えてきたモン・サン・ミッシェル。
708年10月のある夜、大天使ミカエルが司教オペールの夢枕に現れ、湾の真ん中に浮かぶ花崗岩の小島トンプ山に聖堂を建てよと命じます。
ベネディクト会の修道僧らの強い意志により、11世紀にはロマネスク様式の修道院が建てられました。
以来16世紀末まで何層にも建築が積み上げられました。
国王、王子、公爵、騎士などをはじめ、フランスはもとよりヨーロッパの民が巡礼の地として「西洋の驚異」と謳われたモン・サン・ミッシェルを訪れました。





モン・サン・ミッシェルは、海の真ん中に浮かぶ孤島の自然の要塞で、干満の激しい潮により守られている。
14世紀から15世紀にかけて、外敵からの侵入に備え、屈強な城壁や塔など軍事建築が建造された。
又モン・サン・ミッシェルはその特殊な条件のため、監獄としても使用され、「海辺のバスチーユ」と呼ばれ、人々に恐れられるようになった。
パリからブルターニュ地方への道は、小高い丘に牧場が広がり、牛や馬そして羊たちが牧草を食べていた。
まさしくフランスは豊かな農業国だと実感できる風景の連続だった。
昼前にやっとモン・サン・ミッシェルに到着。霧のため海に浮かぶ姿は幻想的でもあった。
見学前に食べた昼食の魚料理は美味しかった。




門から入ったすぐの場所に「メール・プーラールさんの店」があった。巡礼者向けの初めての宿を開業し、美味しい料理で有名になり、今日ではモン・サン・ミッシェルの代表的な土産としてビスケットを売っていた。
キリスト教徒ではない私たちは、宗教的なことは分からなかったが、建物は素晴らしかった。
階段を山の頂上まで登るのは、膝を悪くしている妻には重労働みたいだった。
帰りは参道の両側にびっしりと並んでいる土産物屋を冷やかした。




日本の何処にでもある土産物屋の風情で、特に欲しいものはなかった。
とりあえず、世界遺産の人気No2を見学したという実績が残った。妻の感想は又違ったものと思う。
夕食はパリでビーフ料理を食べた。
5月18日,今日は最終日。パリでの自由行動日だ。オプションツアーとして「ベルサイユ宮殿観光」があったが、私たち夫婦は十数年前にベルサイユ宮殿のホテルで宿泊したこともあり取りやめた。
ゆっくりとした朝食の後、地下鉄で「バラード」から「コンコルド」に出た。中央にオベリスクがあるコンコルド広場を横切り、ルーブル美術館を目指した。目的は美術館でなく、その北側にある「ルーブル骨董品店街」だ。ここはルーブル美術館と共に「ダ・ヴィンチ・コード」の舞台にもなった所だ。




骨董品店街の店開きは11時であったため、ルーブル美術館の中庭で休憩した。美術館の建物はさすがに立派だった。三角形のピラミッドもあり、周りは人々で一杯だった。
時間が来たので骨董品店街を覗いたが、目の保養で私たちの手の届く品物はなかった。私はイギリスのポートベルのような蚤の市に行きたかったが、たいてい土・日の開催で今日は金曜日で休みだった。
セーヌ河畔を歩いて、コンコルド広場の一角にある「オランジュリー美術館」を目指した。


一昨日に訪れたモネの庭。そこの「睡蓮」の作品がこの美術館で観られるとのこと。
「睡蓮」の作品は、6年間の改修工事を終えて、2006年に再開したこの美術館の目玉だ。
1時間足らず並んでやっと入場できた。
モネ晩年の大作8枚で構成される「睡蓮」だった。楕円形をしたふたつの部屋に展示された作品は、天窓から差し込む自然光に包まれ、実際のジヴェルニーのモネの庭に居るようだった。
ルノワールやセザンヌ、マティス等の作品も展示されていた。
私はパリの学生街でもあり、下町の雰囲気が残っているモンパルナスに行くため、メトロを乗り継いだ。
Vavin駅を上がると直ぐ目の前に有名なカフェ「ラ・ロトンド」があった。
このカフェは歴史が古く、多くの文人等が利用していたので、私たちもここで昼食を取る事にした。
パリでのコース料理は高いと聞いていたが、このカフェでのコース料理は思いのほか安かった。
私は肉、妻は魚をメインにしたが、ビール大ジョッキとワインがついてデザート込みで一人14ユーロだった。フランス人の店員の愛想もよく大満足だった。


ここから歩いて「リュクサンプール公園」内の「自由の女神」の原像を見に行った。
そこから又メトロを乗り継いで、バスティーユへ行った。駅前にフランス革命の記念の塔があった。
なんと駅前で蚤の市をやっているではないか。
ナイフ等の古いものがないか探したがガラクタばかりで失望した。
突然スコールのような大雨が降ってきたので退散した。
バスティーユの駅に戻れば、なんとこの駅は8号線も通っているではないか。
一直線でホテルのある「バラード」に戻ることが出来た。
ホテルの近くのスーパーで缶ビールとツマミを買って、ホテルの部屋で夫婦二人の晩餐会となった。


5月19日(土)、5月20日(日)、パリからアムステルダムで乗り継ぎ、関西国際空港に20日の午前中に帰ってきた。
二三日は時差ボケのため調子が悪かった。
(記述日2007.5.26)
(掲載日2007.5.26)
終わり
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