シリア・ヨルダンの旅







”パルミラ”という言葉を耳にするたびに、一度は訪れたいという強い憧れを抱いていた。
昔,中学時代に女王ゼノビアの映画を観たためかも知れない。
理知的な容貌と豊満な女体が少年の心を捉えたのかも知れない。いずれにしろ私はシルクロードという言葉の響きに魅せられた。
山登りの好きな私にとって、「日本百名山」の著者深田久弥が晩年西アジアに興味を持っていたからかも分からない。
以後私はシルクロードを中心に海外の旅をしてきた。
中国は7回も訪れ、タクラマカン砂漠も横断した。
奈良に住む私はシルクロードの東の果てに住んでおり、西の終点ローマは訪れた。西安の街から西方を眺め、 ヴェネチアのマルコポーロの生家から東方を眺めた。
途中のイスタンブールやサマルカンド、敦煌という点は訪れた。

楼蘭の美女は3回もお目にかかったが楼蘭そのものは見ていない。
パルミラやペドラの砂漠は中近東の危険地域という印象もあって旅行に行けるとは思っていなかった。
バクダットやアフガンの治安が悪く、イランの核疑惑が浮上している今日、とても旅行できる状態とは思っていなかった。
環境問題から今年1月の市長選挙に関わり、終わればシルクロードへという思いから選挙戦という嵐を乗り切った。
阪急トラピックスが「シリア・ヨルダン10日間」を企画し、すぐさま申し込んだ。
私は海外旅行で50ヶ国という一つの目標を持っており、すでに49ヶ国を回ったので記念の50ヶ国目は”パルミラ”という思いもあった。

3月17日(水)、午後9時半に関西空港に集合したツアー参加者は20人。添乗員はベテランの下江邦仁さん。
私たちも含め夫婦が6組、4人家族が1組、親子が1組、個人参加が2人という丁度手頃な集団だった。
23:20にエミレーツ航空EK-0317にてシリアの首都ダマスカスへの乗り継ぎ点であるドバイに向けて飛び立った。
乗客は満員で、飛行時間11時間半は辛かった。窮屈な座席で映画を観たり、うとうとしながら朝の5時半にドバイに着いた。

3月18日(木)、ドバイに着いたのは朝の5時40分だった。 日本との時差は5時間だった。アラブ首長国連邦のドバイにはこれまで中継地として何度か来たことがある。
非常に大きなハブ空港だ。待ち時間1時間半だったが、時間つぶしにコーラーと揚げ菓子をむしゃむしゃ食べたのが悪かったのか、 ダマスカス行きのEK-0911に乗り込むときに目の前がぐるぐる回って調子が悪くなった。
3年前に一度経験した疲れからくる”めまい”だ。
ドバイ空港













ダマスカス行きのこの便は座席が空いていたので、最後尾に移動して横になって3時間半寝ていた。吐き気がするが出ない。
機内食も手を出さず寝ていたが、折角憧れのシリアにきたのにという腹正しい気持ちが抑えきれなかった。
シリアの首都ダマスカスに朝8:50着き、入国手続きもふらふらしながら受け、やっとバスの最後尾に座った時に吐いた。
その後ダマスカスでの昼食や、世界遺産ダマスカス観光もパスせざるを得なかった。
妻の話だと聖ヨハネの首が葬られている”ウマイヤド・モスク”、聖パウロの改宗にまつわる話に登場する”聖アナニア教会”等を 見学したそうな。
ベトウインの現在の建物













ベトウインのテント













売店内部













途中に砂漠の真ん中でトイレ休憩があり、無理してバスを降り、周りを少し歩いたが”めまい”は治らない。
ベトウインのテントも見学したがしんどいだけだった。
シリア砂漠の中央にある世界最大級の遺跡があるパルミラに着き、ホテル”セミラス”に入ったが、ホテルでの夕食も食べる気がしなかった。
明日のパルミラ遺跡のために今日はゆっくり安静にせざるを得ないと思った。

3月19日(金)、妻には旅行の初日に一人にして悪かったが、無理をしなかったために体力が回復でき、夜は熟睡できた。
昨日のめまいが嘘のようにすっきりとした気分で目覚めた。そろそろ起き上がり窓辺に行ったが、真っ青な空とパルミラ遺跡がすぐ側に見え、体力と気力の充実を覚えた。
今日一日は念願のパルミラ遺跡見学だ。天候は最高に良い。朝食後、妻とホテルの周りを散歩した。歩くことも問題なかった。
ダマスカスの北東約230km。パルミラ遺跡群は、タドモールと呼ばれる砂漠のオアシスに忽然とその姿を現している。パルミラの名はナツメヤシを意味する。 記念門













パルミラは2世紀に栄華を極めたシルクロードの隊商都市。
遺跡はホテルの近くだったが、バスで遺跡の中心部まで行った。
ベル神殿













ベル神殿













ベル神殿













観光客用のラクダが何頭かたたずんでいる記念門を通って、パルミラ最大・最古の建築物であるベル神殿を見学した。
これは1世紀から2世紀半ばに建設されたもので、列柱で囲まれた広い基壇の中央にさらに列柱で囲まれた本殿や犠牲祭壇があった。本殿は主神ベル、太陽神、月神3神に捧げられていた。
記念門からはパルミラ遺跡の代表的な建造物として有名な列柱道路が続いていた。 列柱道路













列柱道路













列柱道路













青空をバックにこのような薄桃色の大理石の柱が2000年もの間、倒れることなく建っていたものだ。
実際は修復したものかどうかは聞きそびれた。列柱道路の傍にはほぼ完全な舞台が残っている円形劇場があった。 妻は膝が悪く歩けなかったが、私は元気よく円形劇場の階段を上り下りしし一周した。
円形劇場













四面門













さらに進むと列柱道路の中心に四面門があった。くっきりと聳え立つ姿は美しかった。保存状態の良いゼウス神殿もあった。 あまりの素晴らしい建造物に目が眩むようだった。めまいの兆候は一切無かった。
墓室













墓室













墓室













墓室













パルミラ遺跡













ホテル

























料理

























遺跡の西側に広がる谷は、一般に墓の谷と呼ばれている。数々の墓が残されているが、エラベール家の墓と、美しい壁画で有名な3兄弟の地下墓室を見学した。
見学途中に小さな子供が頭に巻く布(アラファト議長が良く使っていた)を売りに来て、安い値段だったので私が買って頭に巻いた。 私は浅黒く髭を生やしているのでアラブ人と間違えられた。他の数人の仲間も買い、以後旅行中に良く使用した。
昼食をレストランでした後、パルミラ博物館を見学した。
一度ホテルに戻り、夕方の夕陽を見る為に、パルミラ遺跡の北側に聳える150mの高さの岩山にある”アラブ城塞”に行った。
そこからはパルミラ遺跡が一望出来た。
アラブ城塞













夕陽と砂漠に浮かぶパルミラ遺跡、ナツメヤシの森を堪能した。
ホテルでの夕食はビールを飲み、一杯食べた。昨日の体調が嘘のようだった。

ゼウス神殿













ゼウス神殿













パルミラ遺跡













パルミラ遺跡













パルミラ遺跡













料理













料理













城塞から見たパルミラ遺跡













アラブ城塞からの夕陽













ホテルで













パルミラは、アラビア半島やメソポタミアと地中海とを結ぶ土地にあった。
そのため、古くから東西交易の中継点として榮え、特に紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけては、中国とヨーロッパを結ぶシルクロード の隊商都市として栄華を極めた。270年ごろ美貌のゼノビア女王が君臨し、小アジアやエジプトの一部も支配下においていたそうな。
しかしローマのパルミラ進撃に対し、誇り高き女王ゼノビアは最後まで降伏勧告を拒み続けたが、ついに272年にローマに滅ばされた。
捕虜となってローマに連行されたゼノビアの最後については諸説があり、本当のところは分からない。見せしめのため鎖に繋がれて街中引き回され、残忍な方法で殺されたとか、貴族の 妻になって余生を送ったとか。

3月20日(土)、今日の予定は水車のハマから、最も優美な中世十字軍の城として有名なクラック・デ・シュバリエを見学しシリアの首都ダマスカスへ向かう。
砂漠のベトウイン住居













今日の移動距離は500kmぐらい。大型バスのため20人のツアーには充分だった。
私たち夫婦は可能な限り最後尾の座席に座ることにしている。
普通は前の席から埋まっていくが、長距離の場合最後の席は気兼ねなく横になれるメリットがある。
ハマの水車













ハマの水車













ハマの水車













ハマの水車













ハマの水車













モスク













料理













料理













朝食後8:00頃にホテルを出発した。
オロンテス川の中流に位置するハマは昔から川の水を利用した農業が盛んなところだ。
ハマに到着して有名な幾つかの水車を見た。ギーコギーコと大きな音を立てて回る水車は圧巻だった。
1982年の爆撃から復興した大モスクや3つの水車横のアン・ノウリ・モスク見学後、レストランにて昼食だった。
ラクダに乗る少女













クラック・デ・シュバリエ













クラック・デ・シュバリエ













クラック・デ・シュバリエ













クラック・デ・シュバリエ













ダマスクス市内













クラック・デ・シュバリエは1144年に移り住んだ聖ヨハネ騎士団が、標高約650mのこの城を要塞化し、本拠地とした。
1188年にエルサレムを落としたサラディーンがこの城を攻めたが、一日で諦めた といわれるほど堅牢だったそうな。以後中世ヨーロッパの城の見本となった。
料理













料理













アラビア人?













城を1時間ほど見学し、ダマスカスへ向かった。ダマスカスのホテルは”サフィールサイダザイナ”だった。今回の旅行で一番良いホテルだった。
夕食後夜の街を3組の夫婦で散策した。

3月21日(日)、本日は5日目。本来世界遺産ダマスカス観光だったが、初日に時間のゆとりがあり、ウマイヤド・モスクや聖アナニア協会、 そして私が最も行きたかったスークは見学済み。私はバスの中で寝ていた。
よって今日の午前中はシリア全土から発掘された出土品の数々を展示した「国立博物館」見学だ。
ダマスカスーこの町は旧約聖書が書かれた時代から今に至るまで存在する最古の都市の一つであり、数々の支配者が入れ替わり、 政治的な変化の荒波を経てもなお、圧倒的な都市の機能を保ち、現在まで歴史から消えることなく機能し続けている。
国立博物館













国立博物館













正面入り口を飾るカスル・アルヒーラの門柱













「国立博物館」には、世界最古と言われるウガリットのアルファベットが彫られた粘土板、ユーフラテス川沿岸のマリから出土した土器やアクセサリーなど考古品だけでなく、 古典的なイスラム建築の展示など見ごたえのある施設だった。



国立博物館見学後、シリア最大で2000年近い歴史をもつ「ローマ円形劇場」のあるボスラへ向かった。
ボスラの町は、世界で最も完全な姿で残る巨大なローマ劇場で有名だ。ボスラ到着後昼食を食べ、1時間足らずローマ円形劇場を見学した。
ボスラ遺跡













ボスラ遺跡













ボスラ遺跡













ローマ円形劇場













ローマ円形劇場













ローマ円形劇場













ローマ円形劇場













ローマ円形劇場













料理













観光後約215km離れたヨルダンの首都アンマンへ向かった。 アンマンのホテルは”アリーナー スペース アンマン”だった。


3月22日(月)、本日はまずアンマン観光だ。 ヨルダンはシリア、イスラエル、イラク、サウジアラビアと国境を接し、イラク情勢やパレスチナ問題で話題に上る国だ。 しかし最近は政治的に安定しており、添乗員の下江氏曰く「シリアは社会主義国で、ヨルダンは資本主義国だ」。 確かにシリアからヨルダンに入ると明るく垢抜けている。物価も高く、高層ビルが彼方此方にある。 1万年前の住居跡やギリシア、ローマ、ウマイヤ朝、十字軍など各時代の遺跡が残っており、なかでもペトラはヨルダン観光のハイライトとなっている。 ワディ・ラムの雄大な砂漠の風景、世界7不思議のひとつの死海もこの国にある。 アンマン城































ローマ劇場













アンマン市内













アンマン城遺跡













アンマン城遺跡













アンマン城遺跡













アンマン城遺跡













アンマン市内ー高い国旗













アンマン城













ヨルダンの首都アンマンは、沢沿いのダウンタウンを中心に、7つの丘の上に広がる住宅街によって形成されている。 国立博物館































国立博物館































アンマン城































ダウンタウンを見下ろす石の城址「アンマン城」。三方が崖、残りも細い尾根という絶好の地形から、古くから人が暮らし、要塞とされてきた。 ヘラクレス神殿の柱が青い空に向かってすくっと建っていたビザンチン時代の教会跡や、ウマイヤ朝時代に建てられた離宮の跡もあった。 パルミラ遺跡に劣らぬ遺跡群だったが、最初に見たパルミラの印象が強かった。 高層ビル













この場内に「ヨルダン考古学博物館」があった。いろいろな考古資料があったが、死海西岸のクムランから出土した「死海文書」は有名だ。 ローマ皇帝アントニウス・ピウスの治世に建設された、33列6000人収容できるヨルダン国内最大の劇場「ローマ劇場」が見れた。 アンマンの南30kmのマダバに向かう。旧約聖書の中の「モーゼがエジプト王の迫害を受け、ヘブライ人率い出エジプト敢行した」という場所だ。モーゼとその一行は、シナイ山で 十戒を授かった後、ヨルダン渓谷の東側を北上したらしい。モーゼ終焉の地”ネボ山”に上った。 アンマン市内













アンマン市内













モーゼは率いてきた民に向かって”あれが約束の地だ”という言葉でパレスチナに向かうよう促した。 私は山の上から死海の向こうがエルサレムだと教えられた。 マダバ













マダバ













マダバ













マダバ













マダバでは「6世紀のパレスチナの地図」と呼ばれるモザイクの残る「聖ジョージ教会」を見学した。 マダバ






















マダバ






















マダバ






















マダバ






















マバダからネボ山に向かう途中に、モーゼが岩を杖で打ち、水が湧き出したと言われる泉があった。「アイン・ムーサ」で「アイン」は「泉」、「ムーサ」は「モーゼ」のアラビア語読みであるそうな。 クリスチャンやユダヤ教徒にとってこのマダバは旧約・新約聖書の世界であるだろう。 モーゼの岩






















その後、世界で最も低地に位置する「死海」へ向かった。昼食後ホテル”デッドシースパ”に入った。 地球上で最も低い海抜マイナス410mにあるのが死海だ。塩分濃度が非常に高く、その名のとおり、生物が住めない湖として有名だ。 ホテルで水着に着替え、妻と一緒に湖に行く。 水に入っても体がかってに浮き歩きずらい。 やっと深いところに行き、仰向けになれば体が浮いている。静かに手で漕げば思う方向に進む。 妻が恐々水に入ったが、足を取られパニックに陥った。手や足をバタバタさせ塩水を思い切り飲んだそうな。 初めての経験だった。 ネボ山













湖の向こうがエルサレム













浮遊体験













浮かぶ私













中庭













遠くで浮かぶ妻













死海













3月23日(火)、今日は死海から300km離れた映画「アラビアのロレンス」の世界が広がる赤い砂漠の砦ワディ・ラムへ。
ヨルダンの南部、アカバやサウジアラビアの国境にもほど近い砂漠にワディ・ラムはある。
第1次世界大戦時、イギリス人将校ロレンスがベドウィンたちを統率してトルコ軍と戦う活躍を描いた「アラビアのロレンス」に出てくる 多くの場面が、このワディ・ラム付近で撮影されている。
ワディ・ラム













ビジターセンター













七つの知恵の柱













今回の旅行前に私も初めてビデオ屋「つたや」で借りて観た。このワディ・ラム砂漠風景は映画そっくりだった。
私たちは4WD車で砂漠を疾走した。4WD車というと格好いいが、実際は荷台に椅子をつけたオンボロ車だった。
ビジターセンターに着く前に、東側に見える大きな岩山が、七つの知恵の柱。ロレンスの最初の著書の題名になったことで有名だ。
ロレンスの泉や、ナバタイ人の碑文がが描かれているハザリ山峡があった。
約2時間、ロレンスになったつもりで砂漠探検を楽しんだ。
ワディ・ラム













ワディ・ラム













ベドウィンのテント













その後約100km走って、砂漠の中の岩山に築かれた古代都市ペトラへ行った。ペトラで2連泊のホテルは「グランド ビュー ホテル」だった。
ここはペトラ遺跡の東側約3kmの遺蹟観光の拠点だ。


3月24日(水)、8日目、いよいよ最後の観光地ペトラを残すのみとなった。
いつも思うことだが、旅行中の1週間、10日間はあっという間の出来事だ。つい先日、日本に帰ってきたのにはや4ヶ月も過ぎてしまい、今やっと旅行記を書いている。 印象も薄れてきつつある。
やはり旅行記は印象の強いうちに書くに限る。
ナバタイ人の都市であったペトラ。長い間この地は、外の人間に知られぬように隠され守られていた。
ペトラは2000年以上も前から、アラビア半島からやってきた遊牧民のナバタイ人やベドウィンによって栄えた中継都市。
車でホテルからペトラのメインゲートへ移動する。 ペドラ遺跡メインゲート













みやげ物屋













ペトラ遺蹟はヨルダン国内で最初に世界遺産に登録された巨大な遺跡群。その遺跡に到達するには大きな岩盤の隙間を通り抜けていかねばならず、難攻不落の秘密の要塞として知られていた。
入り口からシークと呼ばれる細い道まで、砂利道を1.5km歩いた。
ペドラ遺跡













ペドラ遺跡













ペドラ遺跡













ペドラ遺跡













上に4つのオベリスクを持つ岩窟墓「オベリスkyの墓」が見れた。
シークとは狭い岩の裂け目のことで、頭上に迫り出した崖の高さは60〜100m。
シーク入り口













ペドラ遺跡













ペドラ遺跡













ペドラ遺跡













シークの途中には以前、水源地から水を引いていた土管の水路跡が見られた。昔からこのような水道設備があったとは驚いた。
この道を昔から馬車が通っており、今も現役に利用されている。石畳には馬車の轍の跡が残っている。
約30分歩いただろうか、案内のガイドが私たちに一列になれという。
一人づつ進む。突然目の前にあの有名な光輝くエル・ハズネ(宝物殿)が現れた。岩肌は微妙なさまざまの色合い見せていた。
特に早朝と夕方は幻想的な赤色に染まるらしい。イギリス・ヴィクトリア時代の詩人で旅行家でもあったディーン・バーゴンは「時の刻みと同じくらい古いバラ色の都市」とペトラを賞賛したそうな。
このエル・ハズネは一日に50色ものバラ色を見せるとも言われている。
突然現れたエル・ハズネ






























エル・ハズネ






























エル・ハズネ





























エル・ハズネ





















エル・ハズネは、崖を削り、彫り抜いた神殿風正面をもつ霊廟で、幅約30m、高さ約43m。紀元前1世紀〜後2世紀のもので、映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」の舞台ともなった場所である。
映画では宝物を探し、奥まで入っていたが、現実は殆ど奥行きはなかった。
宝物殿と呼ばれる由来は、建物の一番上に乗っている壷の中に宝物が隠されていると信じられていたことかららしい。
エル・ハズネを過ぎると岩をくり抜いた建物が道の両側に並び、ファサード通りと呼ばれている。
その先にローマ円形劇場があった。中に入ることはできなかったが、円形劇場は2〜3世紀のもので5000人以上収容できるらしい。
ローマ円形劇場の右側には王家の墓と呼ばれる岩窟墓群があった。最大のものは一番北側の宮殿の墓だった。
このような一連の建物群は続いていた。
私の興味は道の両側に並んでいるみやげ物屋だった。そこでは小さな宝石入れや、小刀など首飾りともどもベドウィンの女性や子供たちが商売をしていた。
それらの真贋は別にして大概安いものだった。
ペドラ遺跡













ペドラ遺跡













ペドラ遺跡













帰りにゆっくりと見ることにして皆に付いていった。
昼食はペトラ・ナバテア博物館前のレストランだった。
昼食後元気な人たちは奥の「エド・ディル」まで行くという。私の妻ともう一人が残って、ゆっくりと帰るといったので私も残ることにした。
本当はゆっくりとみやげ物屋を冷やかしたい気持ちであった。
博物館で


























私は旅行先で古いナイフを収集する趣味を持っている。
銅製の小さな古い(?細工しているか)小刀が日本円で1000円ぐらいだった。
私たちは博物館を覗き、二人の女性はゆっくりと歩き、私は両側の店を冷やかしながら帰った。
途中の小さなテントの「カフェ」でティーを注文し、店番の可愛いベドウィンの少女と写真を撮ってもらった。
ベドウィンの少女と






















最後の砂利道は妻と私はそれぞれの馬に乗ってメイン・ゲートまで帰った。
午後早い時間にホテルに戻り、ゆっくりと時間を過ごした。


ペドラ遺跡



















ペドラ遺跡



















野に咲いた花



























ベドウィンの少女





































値段交渉?





































休憩中のラクダ


























ペドラ遺跡


























馬に乗る妻





































3月25日(木)、本日は朝8時ごろホテルを出発し、約260km離れたアンマンに行き、レストランで昼食後、空港へ行き、ドバイ経由で日本に帰った。


3月26日(金)、午後5時半ごろ関西国際空港に無事帰国した。
今回のシリア・ヨルダンの旅は私の海外50カ国目と51カ国目であったが、パルミラやペドラ遺跡を訪れたことが大変嬉しかった。
ただ初日にめまい等で皆に迷惑をかけたことは残念であった。68歳になった今、昔のように無理はできないのかも知れない。
それゆえ自重しょうとする気持ちと、まだ元気なうちに体力いる場所には行っておきたいという相矛盾する気持ちが交差している。



(記述日2010.7.24)

(掲載日2010.7.25)



  終わり 









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