東欧三ヵ国世界遺産紀行




20世紀最後の今年の夏は暑かった。
当初エジプト・ギリシア方面へ行きたかったが、旅行会社の「今時分は暑くて大変」という忠告を素直に受け入れて、盆の8月11日出発の「東欧3カ国世界遺産紀行」に決めた。
日本旅行会社主催の「美しき東欧の古都ブダベスト・ウィーン・プラハ8日」だった。一番高い出発日で旅行代金は高かったが、サラリーマンが会社を纏まって休めるのはG・W、盆、正月の3回しかないのでやむを得ない。









8月11日、朝6時40分に高山の我が家を妻の車で出発。(私のポンコツ車はクーラが故障中)
生駒駅の月極駐車場に車を置いて、近鉄で上本町経由、バスで関西空港へ集合時間前の9時に着いた。
11時10分、関西空港発オーストリア航空558便にて、ウィーンへ向かった。
今回のツアーは総勢35名、搭乗員は女性の太田さん。久しぶりの大人数だが、大田女史に言わせればこの時期としては少ない方だそうだ。








中国・新生ロシアの上空がコースだ。いつ見ても同じような大地が続いていた。飛行時間は約12時間、時差が7時間ある為、ウィーン・シュヴェヒヤート空港へは夕方の4時前に着いた。








入国手続き等で16時50分にバス(運転手ゲルハルトさん)でチェコのプラハに向けて出発。
18時25分にオーストリア出国。出国は簡単だったが、チェコ入国は検査員がバスに乗りこんでのパスポートの顔写真チェックがあった。両替所で日本円をコルナに替えた。(1コルナは約3円だった)








チェコのトウモロコシ畑の多い田園風景を見ながら、一路プラハに向かっていたが、その内疲れで眠ってしまった。
当初9時ごろには着くと言っていたが、時計を見ると11時前ではないか。妻の話では同じ所をぐるぐる回っているそうな。
運転手は道を知らないらしい。やっとタクシーの先導で「ヴィエナホテル」に着いたのは23寺30分だった。おにぎりの差し入れがあったが、なんとなく先が思いやられる。風呂に入ってすぐに寝た。









8月12日、バイキングの朝食後、妻と二人で付近を散歩。彼方此方の庭先にリンゴが一杯実を付けていた。
9時にホテルをバスで出発。ガイドは女性のパブウさん。午前中はプハラの市内観光。
第二次世界大戦でほとんど被害を受けなかったプラハは、昔ながらの街並みが今も残るヨーロッパで最も美しい街の一つと言われている。「百塔の街」と言われているほど教会が多く、旧市街を歩けば各時代様式の建造物が見られるらしい。
まずヴルダヴァ川の西側丘の上にあるプラハ城までバスで行く。
男前の衛兵が立っている北門から入場。女性達はほぼ全員が右側のより美男子の衛兵と一緒に写真を撮ってもらっていた。
妻と私は左側の空いている衛兵と写真を撮った。
プラハ城広場を囲む立派な建物は元貴族や司教の館で、現在は政府機関のオフィスや美術館・博物館として使用されているらしい。大統領府があったが、国旗が翻っていなかったので大統領はチェコに居ないみたい。なんでもバカンスでポルトガルへ行っているそうな。









聖ヴィート大聖堂のステンドガラスを鑑賞し、16世紀まで歴代の王の居城だった旧王宮へ行った。
アーチ型天井を持つヴラティスラフ・ホールは縦62m、横16m、高さ13mと中世にはヨーロッパ最大だったらしい。
旧王宮のバルコニーから、ヴルダヴァ川と旧市街が美しく見渡せた。聖イジー教会を見て、16世紀以降、城内に仕える兵士や召し使いが住んでいた場所である黄金の小道へ行った。錬金術士が住み着くようになって黄金の小道と呼ばれるようになったらしい。
外壁がカラフルに塗られたメルヘンチックな小道だ。スリに気を付けながら雑踏の中、絵描きから150コルナ程の絵を2枚買った。
壁にNO22と書いてある青い家はフランツ・カフカ(1875〜1920)が仕事場にしていた場所らしい。








私の大学での最初のドイツ語教科書がカフカの「変身」だった。ドイツ語もまともに分からないのに、中身がそれこそチンプンカンプンだった。日本語の訳書を読んでも意味がはっきり分からなかった事を覚えている。大田さんは面白かったと言っているが本当に読んだのだろうか。当時私は20歳前後だったから理解できず、今なら面白いかも知れない。日本に帰ったら一度読んでみよう。
40年程前の教科書の題名を何故今でも覚えているかと言えば、実は、私はこのドイツ語で単位が取れず落第し、1年間の留年を余儀なくされたからだ。念のため弁明させてもらえば、ドイツ語の試験はクリアーしたが、出席日数が足りなくての落第だった。
当時アメリカの占領地であった沖縄旅行のパスポートが、春休みを過ぎて許可になった為、授業よりそちらを選んだ結果だった。自業自得。









ヴルダヴァ川を挟んだプラハ城と旧市街を600年前から繋いでいるのがこのカレル橋だ。もとは木橋が架っていたが、度重なるヴルダヴァ川の氾濫で流されてしまった。そこで、カレル4世は聖ヴィート大聖堂やカレルシュテイン城を建てた建築家ベトル・バルレーシュに命じて石の橋を架けさせた。
19世紀までプラハ城と旧市街を結ぶ橋はこれ一つだけだったらしい。全長515m、幅10mの橋はゴシック様式、両端には同じくゴシック様式の塔が建っていた。欄干には30体の聖者や歴史上の人物が並び、橋の両脇にはアクセサリーや絵などの露天があり、中央ではストリートミュージシャンが演奏を繰り広げている。賑やかな面白い場所だった。もっと見たかったが団体旅行の為、早早に待ち合わせ場所に向かった。









団体旅行でのお決まりの免税店。今回はボヘミアグラスの「レジーナ」。品質は保証されているが大概高い品物だ。お金持ちにはいいが、私の趣味には合わない。むしろカレル橋等でジプシー達から安くて殆どまがい物を値切って(言い値で買うのは相手に対してむしろ失礼)買うのが旅の楽しみ。100円〜千円ぐらいの思い出の品物が家の本箱の棚に並んでいる。売るわけでもなく、お宝としてテレビに出すわけでもない。乞食に施し物をするのは生理的にきらいだが、労働の成果としてお金で買うのは、旅行者としていい事だと思う。高級店や旅行会社に大金がいくより、貧しい人々にその日のパン代を渡す方が気持ち良いではないか。
私が店内をさっと見て回って外で待っていると、妻はにこにこしてボヘミアグラスのワイン・セットを持って現れた。
何でも日本より大分安いらしい。妻が自分の小遣いで買う分には干渉しない。(日本に帰ってから、ワインの王様トカイをこのボヘミアグラスに入れて乾杯したからあまり偉そうには言えないが)
12:45、地下のワイン貯蔵庫を改造したウ・クラカウツにて昼食。ビール1本飲む。旅の期間中、食事毎にビールかワインを嗜む。妻は「飲んだくれ!」と小言。これがヨーロッパの習慣。郷に入れば郷に従え。









昼からは自由時間。昼食場所を大田さんに地図で教えてもらって出発。直ぐ側の墓地やシナゴーグがある、ユダヤ人地区へ向かう。歩けど歩けどそれらしき建物は無い。その内にヴルダヴァ川にぶつかった。日本人は一人もいない。護岸下の船着き場に沢山の人達が乗船を待っていたので、ガイドブックの15時30分発「ヴルダヴァ川クルーズ」と判断し、乗せてもらいに降りていった。ところが私達の前の人には切符を売ったのに、私達の番がきたら、3時30分と4時30分の黒板の時刻を消してしまい、もう切符は無いと手振り身振りで示す。
今から50年以上前の終戦後はその様な「人種差別」を受けた事も多少記憶に残っていたが、戦争が終わって半世紀、このプラハでその様な目に会うとは予想もしなかった。
川沿いの石畳をカレル橋に向かって歩き、川風に当たりながら考えれば、あそこはユダヤ人地区。
ドイツヒットラーと手を組み、ユダヤ排斥に汚い手を貸した枢軸国の日本。
その国民である私はその責任を本当に感じた事があっただろうか。あれは東條英樹達軍人がやったことで、私達も被害者だと割り切っていたのではないだろうか。ユダヤ人がイスラエルを建国した後、今もナチスの戦争犯罪人を追いかけている現実を思い知らされた。
あのクルーズ切符売りは今後も日本人にはがらがらでも切符を売らないだろう。
それが肉親を豚や牛の様に虐殺された彼の生き方なのだ。私は彼に感謝せねばならない。









思った以上に上流へ来てしまっていたらしい。チェフ橋を潜ってもまだカレル橋は現れない。見えている橋は多分マーネス橋。集合時間は7時半。ゆっくりプラハの街をぶらつこう。
マーネス橋の手前で川岸へ。芝生に寝転んで、プラハ城をはじめ川向こうの寺院の塔を眺める。新市街を目指して歩いているうちに、先ほど探していたユダヤ墓地を見つけた。これは15世紀に設立された世界最古の墓地と言われ、1万2千基も墓石があるらしい。見慣れた旧市庁舎の前で、同行の同じ年頃の夫婦に会った。ミューシャ美術館を探していると言う。じゃー一緒に探そうと私達も同行する。

ここで役立ったのが私の山行きのカシオ万能時計。方位を見定め南東に向かって歩く。途中幾人かに場所を聞きながら到着。
パリやニューヨークでも活躍したアール・ヌーヴォーの画家アルフォンス・ミューシャ(ムハ)の美術館。
娘が大好きと妻はTシャツを1枚買ったが、旅の途中で気が変わり、娘には別のガラスビンを買い、シャツは自分が着ると言う。

夫婦とは美術館で別れ、私達は所期の目的プラハ髄一の大繁華街ヴォーツラフ広場に向かう。650年の歴史を持つヴォーツラフ広場は旧市街の端から国立博物館まで約700mにわたって延びる大通り広場。
プラハの春でソ連軍戦車隊が陣取ったのもこの広場だった。
のんびりしたお国柄かなかなか注文を取りに来ない角のカフェで、私はビール妻はアイスコーヒを飲む。
19世紀末のネオ・ルネッサンス様式の国立博物館を見学。古代の埋蔵遺跡や人骨等が多かった。広い踊り場を持つ中央階段が、その豪華さゆえ映画「ミッション・インボッシブル」の最初の場面に現れたと、妻は、語ってくれた。その映画を見たと言う。









ゆっくりと待ち合わせ場所に、ホットドッグをかぶりつきながら戻ったが、まだ時間が1時間程あった為、旧市庁舎の塔の南面にある仕掛け時計をじっくりと見る為、前のカフェに入った。ビールを注文し、ぼけっとし、うつらうつらしていたら、妻の声。
「キリスト12使徒が現れた」と言う。窓の外を見れば扉はもう閉まって何も見えない。文句を言うとビデオに撮ったと言うではないか。早速見れば映っているではないか。ガイドブックには毎正時とあったが、これは12時と勘違いしていた私の誤り。

ペリカンと言う店でフォークロア・ショーを見ての夕食。各地方伝統音楽の生演奏に合わせて、民族衣装に身を固めたダンサーが次々とフォークダンスを踊る。当然のことながら、またまたビールとワインを飲みながらの鑑賞。親子それぞれの夫婦で参加している4人組と談笑。帰りは千鳥足。きれいなライトアップの建物を見たが覚えていない。途中カフカの生家に寄ったのだけ覚えていた。夜10時ごろホテル到着。直ぐに寝る。

8月13日(日)ウィーンへ向かって朝7:30にバスで出発。出発前に息子の為に、小さなバイオリン型のオルゴール(美しき青きドナウ)を買った。ガイドは前日と同じくパブウさん。最初は途中に古都コノビシュチェ城への予定だったが、予約の都合でカレルシュテイン城へ変更。この城はプラハから西方30kmぐらい離れたボヘミアの森の中。城全体は、城門と外部の中庭、番人の家と井戸塔、城内の王宮とそれに繋がる聖マリア小塔、そして岩山の一番上の、大塔に分けられている。
バス停から馬車に乗って城へ行く。チェコ国王カレル4世によって造られたカレルシュテイン城は、チェコの城の中で特別な位置を占めているらしい。チェコ王冠等の宝物の蔵として建設された。門を入るとおじさん達5人の楽隊によって歓待された。
この城の見学は予約制で、案内役の若い女の子が部屋ごとに、いちいち扉の鍵を締めていた。建物・絵画等素晴らしかった。夢で見るようなボヘミアの城だった。
昼食まで自由時間。通りの両側に連なっている可愛い店で、土産物を探す。妻は娘の為のガラスビン。私は家のログハウス・デッキ横の柱に吊るす鉄製の鐘。
昼食はボヘミアという店のテラスで食べた。
16時にチェコ出国。30分でオーストリア入国完了。19時にやっとHOTEL・BOSEI(ホテル望星)に到着。本日の夜は妻の憧れのシェーンブルン宮殿でのコンサート。
果たして食事して間に合うのかな。ホテルの食堂で急いで晩餐を食べる。
女性達はこの夕べの為のドレスと化粧が気にかかる。食事の途中で着替えに部屋に戻る。妻はどこに隠していたのかイヴニングドレス。私はシャツにネクタイして、ラフな上着を着る。
遅れて宮殿に到着。チケットはB席だったが、案内の女性の計らいでA席に座る事が出来た。モーツアルトとヨハンシュトラウスのオペラのような演奏。魅力ある黒人の指揮者。声量豊かな女性の独唱。妻は感激のあまり失神状態。
ホテルに帰って食べた日本から持ってきたインスタント・ラーメンが最高に旨かった。









8月14日(月)本日はウィーンの市内観光。ホテルを8時出発。ガイドはフレックさん。
ウィーンはハプスブルクの帝都として発展した。先住民族のケルト人がウィーンに定住したのは、紀元前5世紀の頃。ケルト語で「森の小川」を意味する。オーストリアを650年の長きにわたって支配したハプスブルク家は、16世紀には「日の沈まない帝国」としてヨーロッパ社会に君臨。ウィーンはその本拠地として栄える。
最初は昨日のシェーンブルン宮殿。ハプスブルク家の夏の宮殿として、とりわけマリア・テレシアに愛された宮殿。内部には1441室あるが、一般公開されているのは45室のみ。
ハプスブルク家は戦争に寄ってでなく、政略結婚によってヨーロッパに君臨した。
かの女帝マリア・テレサも16人の子持ち。この宮殿で子供達は伸び伸びと育った。御前演奏した幼いモーツアルトが、滑って転んだ時に助け起こされたマリー・アントワネットに「大きくなったら結婚してあげる」と言ったのもこ宮殿でのことらしい。
宮殿内部は豪華絢爛たるロココ調の室内装飾だった。ヴェルサイユ宮殿を凌ぐ意図を持って造られたこのシェーンブルン宮殿は、かくも良く贅の限りを尽くしたという感じだった。
次に見学したのは対トルコ戦争で大活躍したオイゲン公の夏の宮殿「ベルヴェデーレ宮殿」。
内部は見れなかったが、ヨーロッパ風庭園が大変美しかった。「ワルツ」という店でショッピング。「ミューラベイゼル」という店で昼食。ウィーン名物「子牛のカツレツ」はサクサクと食べ易かった。妻はサンドイッチとウィーンコーヒに満足気だった。
午後は「ウィーンの森半日観光」のオプションに参加する。13:20バスにて出発。ガイドはアキコ・ラートさん。まず、森の中のリヒテンシュタイン城を遠くから見る。

妻と写真を撮り合う。次にシューベルトが「菩提樹」を作曲した場所と言われる、「ヘルドリッヒミューレ」に行く。
思い描いていた泉の情景とはかけ離れた、普通の井戸だった。菩提樹の種を拾ったので我が家の庭に植える事にしょう。
ハイリゲンクロイツ修道院(ミトー派)のステンドグラスは素晴らしかった。又ロマネスク様式からゴシック様式の移り変わりも面白かった。又、ルドルフ皇太子が自殺した場所という、マイヤーリンク(狩猟の館)も見た。
バーデンの街を通って、オペラ座へ17:10に到着。1時間程余裕があるので、オペラ座横の繁華街「ケルントナー通」を散策する。
街中のトイレは全て有料なので、「マクドナルド」を探す。ここだけは無料だった。
様々な芸人が色々なパフォーマンスを演じていた。
オーストラリアのシドニーと良く似た感じだった。歩いてウィーンで最も良く目立つシュテファン寺院まで行った。素晴らしい荘厳な建物だった。

ウィーンは大都会なのにその市域に広大なブドウ畑を持っている。自慢の新酒を振る舞うホイリゲ(ウィーン風居酒屋)がある。ウィーンの森の北側にあるホイリゲで今年のブドウで造った白ワインを飲む。裏のブドウ畑の黙って採った生のブドウもおいしかった。
つまみに骨付き肉をカウンターで買ったが、秤売りで切ってもらったりしていたら、時間がかかった。皆で食べたその肉は旨かった。
日本人と見て寄ってくるバイオリン引きに、握手しながらさりげなく札のチップを渡す。
皆でわいわいがやがや飲んでへべれけだ。酔っ払い集団となって、皆でバスに乗りこみ、寝てしまう。









8月15日(火)、朝のバイキングの洋食には飽きてきた。食堂で湯をもらい部屋に帰ってインスタントのうどんやラーメンを食べる。
8:20ホテル出発。ガイドは国境までは昨日のクリマさん。ハンガリーはレオさん。10時にオーストリアとハンガリーの国境を越えた。
13:10、エステルゴムに着いた。今から1000年前、ハンガリーで初めての王宮と教会が建てられ、この街からハンガリー王朝は始まった。ホテル・エステルゴムにて昼食。ここで生れて初めてワインの王「トカイ」を試飲する。日本においては貴腐ブドウは珍しいが、ハンガリーは貴腐ブドウの育ちやすい国。
特にこの近くのトカイは貴腐ブドウが育ちやすい地方で地名がワインの名になった。甘くて美味しいワインだった。
今回の土産にワインを数本買い込む。
聖イシュトヴァーン大聖堂を見学後、ドナウ越しにスロバキャを眺める。私達が学校で習っていた国名はチェッコスロバキャで首都はプラハだった。恥を忍んで正直に告白すれば、今回の旅行まで二つの国に分かれているとは知らなかった。
ソ連が崩壊し東欧諸国がそれぞれ社会主義を離れ、西欧化する時にチェッコとスロバキャは分離したらしい。
それは1993年のことだった。このドナウに架っていた橋が、第2次世界大戦で破壊されたまま、回復もされず、無残な橋脚と橋台が残っていた。両国の関係を暗示しているようだった。小さな店でコーヒタイムを取った。

14世紀にトルコの襲撃から逃れたセルビア人が造った街センテンドレ。今は若いアーチストが集まる芸術の街。ここでフリータイムがあり、陶磁器や民具を見てまわった。私は鉄製の秤を買った。
ハンガリーはオーストリアと同じく、アルプスの水を飲んでいる為、ヨーロッパでは珍しく生水が飲める。最初はびくびくだったが、一度飲んだら美味しく以後この両国では生水を飲み続けた。

18:40、ハンガリの首都ブダベストのホテル「Holiday/Inn」に到着。
夕食後オプションの「ドナウ河ナイトクルーズ」に参加する。
母なるドナウは全長約3000km。源はドイツの黒い森。ドイツ・オーストリア・スロヴァキア・ハンガリー・セルビア・ブルガリア・ルーマニアと7カ国を通り黒海へとながれているヨーロッパの大河だ。
ブダベストはドナウ河によって、ブダ地区とベスト地区に分かれる。ブダの河沿いにある王宮は長い間ハンガリーの政治経済の中心であった。このブダとベストを結ぶくさり橋。
これらがライトアップされ幻想的な風情を醸し出していた。1時間ちょっとのクルーズだったが、あまりの美しさに酔いしれた。明日は朝から市内観光。楽しみだ。
私がこの国に拘るのは、昔この国がマジャールと言っていた頃の切手を手に入れたからだ。
少年の頃なのでどうして持っていたか今では思い出せない。又ハンガリー人はヨーロッパでは珍しくモンゴル系らしい。
今回の旅行でもそれらしき事には言及されてもそうだとは誰も言っていない。小さい頃、ハンガリー人には、日本人と同じくお尻に蒙古斑があると聞いた事がある。非常に人懐っこい民族で、親近感がある。

8月16日(水)、9:05ホテル発。ガイドはレオさん。バスでペスト地区見学。英雄広場でこの国の英雄達の紹介。それから聖イシュトヴァーン大聖堂見学。イシュトヴァーンはハンガリー建国の父と言われる初代の国王。ブダに入って、漁夫の砦・マーチャーシュ教会・マリアテレジアの王宮。(たった一晩だけ泊まったと言う)ゲレルトの丘よりブダベストの市内展望。昨夜見たくさり橋や国会議事堂がはっきりと確認出来た。
ニムロという店で昼食。昼からはオペラ座や温泉のオプション観光。このハンガリーは温泉が有名。そかも日本と同じく裸で入る温泉らしい。
世界でも有数の温泉都市ブダペスト。町の中心にいくつもの温泉が湧き、古くから治癒をかねた社交の場として、一国の首都にユニークな場を提供している。

昼からはレオさんのガイドで国立オペラ座の見学。真面目な性格らしく熱心に説明。私達にとってはもっと外の空気、ありのままの庶民の生活を感じたいのに、そういう気持ちが理解できないみたい。
やっと待望の温泉だと行ったゲッレールトでは女性は温泉に入れないと言う。
入る曜日が決まっているらしい。それくらい前もって調べといてくれと言いたくなる。
やむを得ず又バスに乗ってセーチェニの温泉に行く。ここでも勉強不足が出る。海水パンツ着用だという。私達夫婦は持ってきたがほかの人達は誰も持ってきていない。レオさんは女性に付いて行ったが中々戻ってこない。私達男性4人はチケットを持って入ったが要領がさっぱり分からない。やっと手振り身振りでパンツを借りたが、ロッカーに服をどうして預けるのかも分からない。地元の人達のやり方を見て、ロッカーに服を預け鍵を貰ったのは大分経ってからだった。
温泉が見つからない。プールはあるが温泉らしきものはない。取り敢えずプールに入ることにする。これが温いではないか。
やっとこれが温泉と気づく。妻と3人の女性もこのプールに入浴している事を確認。時間が無いので付近を少しだけ探検して出る。ブダペストで温泉(?)に浸かったという実績だけ。

私達より早く出た女性達が戻ってこない。何でも借りたタオルを紛失したといって、罰金を取られたらしい。大田さんとレオさんが言い合いを始めた。最後にレオさんが感情的に「私のお金で払います」と言って終わったが感情的にまずい空気が流れた。
次に行ったニューヨーク・カフェでも気まずい雰囲気だった。最後になって折角の旅が台無しだ。
太田さん達にも気のゆるみがあったと思う。最後の夕食はハンガリー料理とワインだった。追加注文のトカイワインは責任を感じて太田さんが奢ってくれた。
9:10 ホテル到着。明日の朝は4時起床。荷物をまとめて缶ビールで妻と乾杯し直ぐに寝る。

8月17日(木)今日は日本へ帰る日だ。早朝4時起床。弁当を持ってホテルを4時45分に出発。ハンガリーフェリヘジ空港より、ハンガリーのマリブ航空600便にて、ベルギーのブリュッセル空港へ。乗り継いでオーストリア航空でウィーンへ。又乗り継いでオーストリア航空557便で関西空港へ。

8月18日、朝8時前に関西空港に無事着いた。私の黄色の大きな旅行スーツケースは10年以上愛用した為、底の4個の車輪周りが切れていたが、それを見た太田さんは関空で修繕するように交渉してくれた。
良く気の付く人だ。その日中に空のスーツケースを宅急便から自宅へ取りに来てもらうサービスで預けると1週間で戻すというシステムだ。
旅行会社のアンケートには太田さんの事を誉めておいた。生れて初めての東欧の旅。妻はウィーンの宮殿演奏会、私はプラハとハンガリーのトカイワイン。本当に楽しい旅だった。

(2000.8.11〜2000.8.18)

  終わり 








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