私の住んでいる所





 私の住まいは生駒市高山町であるが,京都・大阪・奈良の三府県境で,京阪奈学研都市の真ん中でもある。
  生駒山脈北端の山麓で八幡台地につながる標高270mの京阪奈丘陵地帯にある。
  枚方方面から丘陵を見れば,ぴょこんと突き出た山がある。交野山である。住まいはその山の奥にある。
    大阪で生まれ育った私たちにとって,遠足は六甲山麓の仁川か,私市のハイキングだった。住まいはその私市ハイキングコースの終点,頂上付近である。緑に囲まれた静かな住宅地だ。 別荘地として開発されたが、現在150戸が毎日そこで生活を営んでいる。
  最寄りの交通機関は近鉄奈良線富雄駅からバスに乗って約35分の終点だ。
  地図に私の家を中心にコンパスで円を描けば,半径30kmで大阪湾と琵琶湖に接し,20km内外で大阪・京都・奈良の中心に至る。半径5km内が大雑把に言うと京阪奈学研都市と言えるだろう。この京阪奈都市は,西北はJR片町線(学研都市線),東は木津川,南は国道163号線に囲まれた地域とも言える。
   この地域は古くからの日本文化の影響を最も強く受けているにもかかわらず,近世は世間からすっかり忘れ去られた非常に辺鄙な,陸の孤島とも言える場所になっていた。
  枚方市最奥の穂谷,京都府田辺町の天王・高船,生駒市高山町の傍示,いずれの部落も昔ながらの佇まいだ。山あいの段々畑,あちこちに点在する潅漑用の池,たんぼ,栗林,タケノコ用の孟宗竹林,娘のための桧林,茶筅用の破竹(淡竹) ・・・・。
  何よりも驚くのは葦葺きの家が彼方此方に点在していることだ。
  昭和61年春、ここに引っ越して,息子Jが奈良県生駒市の中学校に入学したが,その学校には京都府の高船から数人の中学生が通っていた。この時代にまだ義務教育の中学校が無いところがあるとは。
 
高山は茶筅の里である。全国の9割方此処で生産されているらしい。晩秋から初冬にかけて,富雄川沿いを散策すれば,彼方此方で刈り入れの終わった田圃で破竹を組んで干している風景に出くわすだろう。美しい冬の風物詩である。
 
 
 
茶筅用に干している破竹


天正5年(1577)松永久秀を信貴山城に攻めるべく織田信長の大軍は,途中,鷹山氏の守る高山城を取り囲み滅ぼした。信長に従う筒井氏に滅ぼされた鷹山氏は,無足人となって茶筅製造に専念したという。
   高山八幡宮の境内には,いくつもの宮座の座小屋があるが,無足人座だけは特別な場所に有るという。
  10年程前,高山八幡宮の境界線をめぐって,座同士の争いの記事が地方紙に載ったが,今でも封建的な因習が綿々と残っていることにびっくりしたものだ。


  数年前の10月15日,妻と2人で富雄川沿いを散策した際,高山八幡宮のお祭りにぶつかった。
 
  村の鎮守の神様の
  きょうは めでたいお祭り日
  ドンドン,ヒャララ,ドン,ヒャララ
  ドンドン,ヒャララ,ドン,ヒャララ
  朝から聞こえる 笛太鼓
 
  お稚児になった,化粧したかわいい一年生。ハッピ姿に赤いタスキをきりっとしめ,神輿をかつぐ子供達。
  庄田,大北,久保,宮方,芝とそれぞれの地区を一巡した子供達の神輿は,高山八幡宮に向かい,拝殿でお祓いを受け,五穀豊饒,家内安全を祈願する。
  参道の両側には,屋台店が並び,金魚すくい,タコ焼きや綿菓子が売られている。 鳳神社や岩清水八幡宮の様な賑わいは無いが,なんともほほえましい風景だ。
  ここに住んで早10数年。この地をこよなく愛し,いとおしさを感じるようになった。私の第二の古里,終いの住処の予感がする。
  古い伝統と文化が有りながら,オオタカが生存する豊かな自然が有りながら,いまなお田園生活を営みながら,学研都市建設で徐々に失われて行く自然や文化,歴史的遺物。
 
  学研都市は何よりもこの地域に古くから根ざしている豊かな日本文化を継承し,これらを踏まえた東西文化の融合の中から21世紀をリードする新しい文明・文化−学術・芸術・科学−を創造して行くことを目指しているという。
  この京阪奈丘陵に9つのクラスターという,小さな町を造り,回りの自然をそのまま残し,『職住近接』にするという。
  私も一現住民 として,この思想・運動に参画したいと思う。『推進機構』の方向と必ずしも一致しないが,協力できるところはして,素晴らしい環境と文化を守りながら,新しい文化都市『関西文化学術研究都市』を創造してみたいものと思う。
 

(記述日:2002.6.12)
(掲載日:2002.6.12)





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