一度は登っておきたい山ー富士山
4月の移動で単身赴任の東京から、妻と子どもの居る大阪に戻って来た。
地元大阪はやはり何かと雑用が多く、一度も山に行けなかった。
山への願望が日増しに強くなった7月の初め、東京のO氏から富士登山の基地として夫婦で自分の家に泊まりに来てくれとの嬉しい誘いがあった。
足の弱い妻は軽い山登りは付き合うが、富士山はとても無理なので単身伺うと返事した。
8月1日(金)夜O氏宅に泊めてもらい、2日と3日で富士登山を完了し帰阪するという計画を立てた。
忙しさにかまけていたが、いよいよ近づいたので山小屋に電話すれば小屋はすべて満員という。Oさんはとにかく来いという。
8月1日夜、小田急の渋沢駅にO氏が息子さんと一緒に迎えに来てくれた。息子さんが明日同行してくれるという。先輩の配慮におおいに感謝する。
O氏宅に着けば、奥さんが体の調子が悪く昨日入院したという。又今日はOさんの60歳の誕生日というではないか。娘さん2人の手料理による還暦祝いに列席することとなった。事前に知らせたら来れなくなると黙っていたらしい。持つべきものは友人と嬉しくも有り、申し訳なくただただ頭が下がるのみであった。
8月2日朝7時にO氏の運転で秦野市の家を出て、御殿場経由で富士スパルラインに入った。大沢駐車場で2時間程待機させられ、吉田口5合目に着いたのは11時半だった。
ここの雲海荘は昨年の富士登山の中継基地だった為よく覚えていた。台風の影響で8合目退却を余儀なくさせられたため、今年こそは頂上を何としても踏むぞという気持ちが湧き上がってくるのが分かった。
身支度を整え、息子さんと私はゆっくりと歩きはじめた。吉田口5合目は標高2300mだった。1時間足らずで七合目に着いた。
登山歴も無く富士山は初めてという息子さんだが、バスケットをしてるだけあって、息の乱れも無く頼もしいパートナーになりそうだ。途中で買った弁当を食べる。休憩も無く標高3020mの8合目に2時過ぎに着く。
2時間程で昨年泊まった場所に来たことになる。かなり速いピッチだ。小休憩で本8合目に向かう。かなりきつい登りだ。
途中で何度か立ったまま休む。息が切れる。しんどい。やっと本8合目に着いた時は正直言ってかなりバテテイタ。
若い息子さんは私を追い抜くでもなく私のペースに合わせて付いてきてくれた。素直ないい子だ。
約300mの高低差を1時間半かかったことになる。ご来光の時間合わせだけでなく、気圧の関係からも8合目で泊まることが合理的かつ自然なのだと自らの体験によって納得する。
頂上が目の前に見えているが足がなかなか進まない。9合目にかろうじて辿り着き、後は這ってでもと思うが足が体が動かない。
30m歩いては止まり、100m毎に休憩して頂上に着いたのは5時半、400mの高低差に約2時間かかったことになる。
標高3776m日本一高い山・富士山の頂上にやっと立ったのだ。
感激のあまり照れも無く息子さんと握手する。缶ビールで乾杯し、椅子に座って疲れを癒す。
お鉢巡りに行くため歩き出すが、日が傾き初め、寒くもあり、又今日中に下山するには時間の余裕がないことを考え、安全第一で引き返す。
6時10分、須走下山道を下りはじめる。2人して砂道を駆け下る。飛ぶようにとはいかないが、かなり速いピッチで8合目に着いた。
このペースで行けば、新5合目まで迎えに来てくれているOさんには、1時間もすれば会えるなと軽い気持ちで降っていった。
かなり降ったのに一向に着かない。太陽が沈み暗くなり、私はヘッドランプをつけ、息子さんには念のため持って来ていたペン型の懐中電灯を貸す。足元が暗く、先頭の私が声を掛けながら、確実にしかしそこそこの速さで降っていった。
足が少し笑いかけ、時々躓いてこけそうになる。又、疲れて来た。真っ暗闇の中、降りているのは我々二人だけだ。
周りの雲の隙間で稲妻がピカッとひかる。神秘的な光景だ。疲れて道端にごろんと横になれば、満天星だらけ。北斗七星が目の前に非常に大きく輝いていた。
7時半ごろ、息子さんが持って来ていた携帯電話で、既に迎えに来ていたOさんと連絡が付いた。「あと10分ぐらいで着く。」と返事した。
やっと着いた新5合目は、「砂払い5合」といって、無人小屋があった。本当の新5合はこれから森の中を30分も降ったとこにあるらしい。携帯は何度掛けても圏外だ。
森の中の下山道を石と根っこに気をつけながら降る。途中で「下山道」の看板を見失う。
富士のすそ野に広がる樹林帯に迷い込めば遭難だ。見当をつけて降りかけたが、人様の大事な息子を預かって居る立場を思い出す。
「道に迷えば元に戻れ」という山の常識を勇気を持って実行する。
せっかく降って来た道を又登りかえすのはしんどいが、正しいことをしているという自信をもって遂に「下山道」の標識を見つけた。
我々が降っていたのは、鉄砲水によってつけられた偽の道だったのだ。
やっと9時半にOさんの待っている新5合に着いた。「遭難したかと」と心配して待っていたとのこと。
新5合は標高2000mとのこと。1700mの高低差を約3時間で降ったことになる。足が棒のようにつっぱているが、日帰りで富士山を登ったことの満足感が心地よい疲労感を伴って、体中を駆け巡った。
帰りにホルモン焼きをご馳走になって、もう一晩世話になった。
今回の富士登山はOさんに最初から最後までお世話になりぱなっしだった。
非常に取り込み中だったにも関わらず、明るく心を込めて接待して頂いた。
優しくしっかりした銀行員のお姉さん、チャーミングな妹さん。そして無理して同行してくれた息子さん。この素晴らしい家族をOさんと一緒に作り上げられた奥さん、皆さんに心からお礼の言葉を捧げたいと思う。
(1997・8・11)
終わり
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