厖大な山塊ー飯豊山
深田百名山を登りきるには、体力ある若いときに登らねばならない山が三つあるという。
一番目は北海道の幌尻岳。二番目が今回の飯豊山。三番目がやはり北海道のトムラウシだ。

台風13号の接近により中止覚悟で、8月19日集合場所の伊丹空港に行った。9時集合なのに誰も来ない。やっと同年輩の男性が一人大きなバックを背負って近づいた。「サンケイ旅行会」の飯豊山でとお互い確認する。
やっと見知った顔のガイド兼添乗員の角崎さんが駆けつけた。今日は三人だとのこと。もう一人の同年輩の男性も現れた。やはり本格的な大きなバックだ。私はいつも35リッターの中型バックに18リッターのディバックを入れ、登山中は18リッターのバックで用を足していたが、今回は縦走ということと、シュラフと米3合持参という条件から、モンベルの25リッターのバックに詰めて来ていた。
私にとってこれで必需品は十分だが、皆はいったい何を持ってきているのだろうか?
58歳のIさんは、寒がりということで衣類をびっくりするほど詰め込んでいた。
65歳の物静かなベテランYさんは、百名山が今回で91番目というだけあって本格装備をしているようだ。それに果物等食料品も多く持ってきているようだ。

やはり「飯豊山」という名前に恐れ慄いたのか、シュラフや米3合持参が効いたのか、何時もは多い中高年(特に女性)は敬遠したみたいだ。添乗員含めて4人と言うのはこれまでの山行き最小人員記録だ。団体旅行というより仲間同士の登山のようだ。
9時45分発のJAS793便で新潟空港に10時55分着いた。8人乗りの小型タクシーが待っていた。まさしく大名旅行だ。磐越自動車道で会津坂下で下車、山都に入り、本日の宿である川入の民宿「村杉荘」に午後3時頃入った。

風呂に浸かり、夕ご飯まですることがない。4人でビールを飲んで小宴会だ。
夜は岩魚の焼き魚に山菜だ。またまたビールで宴会だ。宿の先代の主人の熊を打った話に耳を傾ける。一頭の熊を仕留めたら20数人の胃袋を満たすそうだ。当時から熊の胆は貴重品で入札していたそうだ。熊は臆病で子連れのメス以外は向うから気配を感じて逃げるそうだ。
お爺さんが繋ぎなしでソバを打ち、美味しいとの噂で明日のソバを予約する。

8月20日、3時半起床。弁当二つ持って、4時出発。ここ川入は標高460mだが、白布沢の林道の終点まで車で若奥さんが送ってくれると言う。
4時49分歩き出す。ここは標高890m。400m程の標高を稼いだことになる。楽するのは大歓迎だ。
うっすらとした明かりがあり、ヘッドランプはいらない。ゆっくりと歩く。30分程歩いて一回目の休憩だ。標高差250mぐらい登ったがしんどくない。

6時19分、御沢との合流点で朝食。おにぎり二つとも食べる。食欲があるということは疲労していなくて元気だということだ。他の二人は一つだけみたいだ。ここは標高すでに1440m。1時間半で標高差550m登ったことになる。私の普段のペースより少し速いが少しも疲れていない。体調は非常に良い。
このころから雨がぱらつき出す。時々お日さんが射したり氷雨が降り出したりおかしな天気だ。横峰を通過し、地蔵山を巻いて剣が峰の手前で休憩。標高1650m。虹が掛かっている。
剣が峰は岩だらけの尾根筋の岩場だ。リーダーの角崎さんの直後ろに付いていた私は、リーダーが鎖を使わないので私も使うことなく、苦労することなくよじ登っていった。あとでリーダーは「溝川さんは岩をやっていたの?」と聞いたので、「いや、夏場の縦走だけです」と答えておいた。私はこのくらいの岩場は好きだ。斜里岳の時の渓流登りも性に合っている。
I氏は少し苦しそうだ。同宿の若い登山家も「ペースが速い」と汗だくだった。私はすこしも応えていない。むしろこの飯豊山を登っていることに爽快感を覚えていたぐらいだ。

標高1644mの三国岳を越え、「三国小屋」でしばし休憩。8時過ぎだ。この調子なら10時までには、本日の宿「切合小屋」に入れそうだ。
この場所でやっと飯豊山が少し見えた。
展望が悪い性もあるが、見渡す限りの周りは山また山だ。南アルプスの時のように知っている山は一つもない。
山の懐深く入り込んだ感じだ。
七森を越え、種蒔山(標高1791m)の頂上を踏み、切合小屋に入ったのは9時半だった。
休憩を含んで約4時間半で標高差900mを登ったことになる。いくつかの山を越えてきたので累積標高差はかなりのものと思う。
小屋の番人は未だ寝ていた。速く着いたことにびっくりしていた。
ここまでは天気が崩れるかもしれないと急いで登ってきた。ゆっくりと花も見ていない。写真も一枚も撮っていない。

普通ならここで一晩泊り、明日飯豊本山に登り、川入まで降るのだが、今日中に空身で往復してしまおうとなった。
私は大賛成。まだ午前10時前だ。空身といっても雨具の上下と弁当・水筒・非常食・デジカメを持つ。

10時出発。空は晴れたり曇ったり。少し歩いた所で濡れた笹薮となり、上下のカッパを身につける。広い原っぱのような尾根筋を歩く。残雪が彼方此方にある。砂礫地帯には可憐な「マツムシソウ」が咲いていた。期待していた「イイデリンドウ」にはお目にかからなかった。
ミヤマリンドウはたくさんあった。
草履塚の手前で、足取りの重かったIさんはリタイア。姥権現を過ぎ、御秘所という岩場を注意深く通過し、飯豊本山小屋のある「飯豊山神社」に着く。雨風が強く、ガスが充満し視界が殆どない。鐘を一つならして通過する。ここは頂上南峰、飯豊本山のある北峰に11時50分に着く。休みなしに歩いて二時間足らずかかったことになる。

標高2105m。やっと頂上だ。視界は零。風雨が激しく、寒い。デジカメで頂上写真を撮るも可動しない。手がかじかんでカロリメートの封を切ろうとするも出来ない。風が強く吹き飛ばされそうだ。10分間程いて撤退する。
帰りは暴風雨のようだった。背面からの風だったので半ば吹き飛ばされながら前進。
飯豊本山小屋に入る。髭ずらの管理人と若い登山家が三人居た。ガスボンベで暖を取っていた。せめて手だけでも当たりたかったが我慢した。寒くて弁当どころでなかったので、三人の弁当を髭の管理人にあげた。「村杉荘の弁当で美味しいですよ!」
そこから暴風雨の中をやはり2時間近く掛かって「切合小屋」に辿り着いた。今日はここまでだ。頂上を無事アタック出来てほっとする。

Iさんは寝ていた。服を着替え、シュラフに少し入って暖を取り、ガイドの角崎さんと宴会を始める。ビールは350mlで800円だ。
角崎さんは一升瓶を取り出した。良く持ってきたものだ。キムチの缶も出してきた。ザックが大きい筈だ。
私もつまみを出し、二人の管理人にも酒を振舞い、途中からYさんも加わり、一升瓶を空にした。
夕食のカレーを食べて、夕方5時に寝る。
私は酔いもあって、パンツ一つでシュラフに潜り込んでいたが、夜中余りの寒さに目が醒めた。着替えを持っていないので、少々濡れてはいるがニッカポッカの登山ズボンと上着を着込んで又眠りについた。夜中暴風雨の為小屋全体が軋んで壊れそうだった。
8月21日、朝5時前起床。12時間近く寝たことになる。やはりかなり疲れていたのだろう。
朝食は納豆と卵、味噌汁だ。美味しかった。
6時下山開始。寒さと雨の為、上下ともカッパを着る。来た道を帰るが、登ったり降りたりしながらの縦走なので疲れる。
地蔵山では迂回し、「血の池」や「地蔵小屋跡」を見る。帰りは長坂尾根を下る。上十五里や下十五里を通過し、泥だらけになりながら御沢登山口に着いたのは12時頃だった。6時間で標高差1200mを降ったことになる。普通の山なら3時間で下れるところを倍も掛かったということは、いかにこの飯豊山が深い山だったといううことだ。
少し歩いた御沢キャンプ場で昼食とする。角崎さんが持参していたボンベでスープを作ってくれた。温かいスープにトロロ昆布を入れた飲み物は最高だった。
2時頃には「村杉荘」に戻った。早すぎたので遠慮していると、若奥さんは既に我我が到着することを知っていて、風呂を沸かしてくれていた。4人の内3人が頂上アタックに成功したことも知っていた。なんと髭の管理人は若奥さんの旦那だった。彼は自分の家の弁当を食べたことになる。
この夫婦には6人の子供がいる。小さな子供が良く家事を手伝っていた。ここ切合は冬は豪雪地帯で、皆里に降りると言っていた。
風呂に入って又宴会だ。若奥さんはトマトのスライスや山菜のつまみを出してくれる。夕飯のソバは旨かった。
取り合えず難関の飯豊山を攻略できて満足感がじわっと湧いてきた。
今回の山行きでシュラフを担いでの縦走にも自信が出来た。それと足も吊ることなく、リーダーのペースに付いて行けたことも大きい。
この調子ならこの2〜3年で百名山達成も出来るかも。
8月22日、朝7時に起きる。今日もまた12時間寝た。今回はゆったりとしたスケジュールだ。
会津白虎隊の終焉地を見学し、喜多方ラーメンを食べ、新潟空港から夕方大阪に戻る。
今回で深田百名山は56座目だ。なんとか今シーズン中に70迄いきたいものと思う。
(2002.8.23) 終わり
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