乗鞍岳登山
今年の夏は妻の登れる山へ行くことになった。せいぜい2時間の歩行となれば、車を利用して、出来るだけ高度を稼ぐ必要がある。
妻の勤め先の駒ヶ根山荘が取れたため、御岳と乗鞍岳を狙うことにした。
どちらも深田100名山だ。駒ヶ根山荘は8月10日のため、前日はひるが野高原にある旅館を予約した。
娘も一緒に行くという。
8月8日(金)夜11時30分、私のクラウンで生駒を出発。京奈和自動車道の田辺西で高速に入り、瀬田東で名神に乗り、北陸自動車道の富山を目指した。
何故前日の夜に出発となったかというと、この時期乗鞍は渋滞がひどいと姉に聞いており、又私の富士スパルラインの2時間渋滞の経験から、取り敢えず朝早く、渋滞前に頂上の駐車場に入っておきたいという理由からである。
福井北まで2時間半、私が頑張って運転し、1時間程仮眠して妻の運転で富山ICを降りた。飛騨街道を神通川に沿って南下し、鉱山の町神岡を通って、高原川に沿った越中東街道を平湯に向かった。
平湯の三叉路で右折して、途中で運転を変わり、乗鞍スカイラインに入り、8月9日午前7時に頂上付近の畳平駐車場に着いた。
渋滞にも巻き込まれず予定通りの工程だった。ただ台風の影響で頂上付近は凄い暴風雨だった。
2時間ほど仮眠して剣ガ峰(3026m)の頂上を目指す。
妻は私のあげたゴアテックスの雨具を忘れて来たため、念のため持参したポンチョを渡す。
嵐の中3人は鶴ガ池のわきを通り、富士見岳の山腹に付けられた車道を登って行った。視界はゼロ。
ただ道端の高山植物が可愛く妻と娘は大喜び。
やがてコロナ観測所の建つ魔利支天岳への道と分かれ、裾をまいてゆるく下って室堂ガ原に着く。此処に肩の小屋があった。
此処から先は登山道になり朝日岳の山腹を急登することになった。妻が疲れて来た。ゆっくりしたペースで登る。途中、突風によって吹き飛ばされそうになる。3人は飛ばされまいと手をつなぎ足を踏ん張って突風をやり過ごす。
2時間かかってやっと剣ガ峰の頂上に着く。暴風雨で目も開けられないぐらいだ。
二つの祠があったが、急いで拝んで、写真を撮ってそうそうに引き上げた。
乗鞍岳は深田100名山中29番目の山だった。
帰りは肩の小屋でうどんを食べた。ゆっくりと畳平の駐車場に戻った。登りはじめからここに降りてくるまで視界はまったく無かった。
これからひるが野に向かのだが、雨に濡れており寒いので温泉に浸かることに衆議一致。
私の主張で遠回りだが白骨温泉にいくことになった。気にかかっていた温泉だったから。
信州側の乗鞍高原に出るべく、冷泉小屋・三本滝を経て、鈴蘭から上高地乗鞍スーパー林道を白骨温泉に向かった。
かなり回りくねった急カーブの道で、思った以上に時間がかかり、妻と娘はブーブー文句を言っていた。
早く着こうとレーサー並みに飛ばしたこともあるが、疲れている運転者の身にもなって欲しいものだ。
娘はもともと風邪気味で、妻と私は交代交代の運転でかなり疲労していたものと思う。
やっと着いた白骨温泉で、私は露天風呂に入りたかったが、体を洗いたいという妻と娘の希望で一人800円の温泉旅館の門を潜った。
湯は白っぽく暖まったが、店員の愛想の悪さに草々と退散する。
急カーブの山道の運転は私の方がゆっくりでいいと妻がハンドルを握る。
梓川沿いに坂巻温泉を通って、上高地に向かい、上高地に入るトンネル手前で左折して、安房峠を目指した。
前にキャンピングカーが走っていたこともあって、のろのろ運転で、3人ともかなりいらいらしていたと思う。
安房峠も超え、急カーブの道も無くなり、もうすぐ平湯温泉という頃、助手席の私と後部座席の娘はうつらうつら眠ってしまっていた。私はいびきをかいていたらしい。
常常、妻はゴールド優良運転者で自信もあり、我々も任せきっていた。
10年前に妻が免許取りたてのときは、助手席でいろいろ注文を付けていたが、最近は「命預けます。」と助手席で眠ってしまうのが常だった。
「バシャン!」という大きな音で目が覚めた。
妻の「ごめんネ、ごめんネ」と言う声で事態を悟った。
真っ暗な中、車がひっくり返っており、ガラスの破片が飛び散っているのが分かった。
娘の声がしないが雰囲気で無事らしい。
狭く、脱出すべく扉や窓を触るがびくともしない。前を見れば(3人とも後部を向いていた)、明るく、後ろのガラスが割れきっていて無いではないか。
まず娘がそこから脱出する。
妻は何か挟まれて動けないという。そのうち「お父さん!シートベルト外して!」と叫んだ。
なかなか外れなかったがやっと取れて、妻も這い出す。
窓はいがんで狭くなっており、私の体はとても通れない感じだった。無理して頭を出せばなんとか通ったので、「助かった!」と思った。
助けに来てくれた男の人に腕を引っ張って引きずり出してもらった。
崖の斜面を這い上がって見れば、娘はしゃがんで額から血が流れ出ているではないか。
妻の右腕は血だらけだ。多数の人が介護してくれている。娘や妻はもちろん、周りの人も血がいっぱい付いていた。不思議に私はどこも怪我していないみたい。
娘のことが心配で、「Y!大丈夫か?」と大声だせば「大丈夫」とうなづく。しかし顔色は青く、しんどそうだ。ある人が娘に「名前は?生まれた日を言えるか?」と尋ねれば「溝川Y子。19○○年○月○日」と答えた。
目顔で振り向いたので「そうだ」と合図する。「意識ははっきりしている。安心だ!」と言ったので、私もほっとする。
そのうちパトカーが来て、妻と娘を乗せて、救急車に乗せるべく行ってしまった。
車には貴重品が残っており、又位置確認のため私が残ることになった。
車は道路から谷に向かって落ちており、かろうじて木にひっかかって、ひっくり返ったまま止まっている。
落ちた距離は5mぐらいだろうか。一回転してタイヤを上にして完全にひっくり返っている。ヘッドランプはついたまま、エンジンも懸ったままだ。爆発の危険もあり止めることも出来ない。
もしあの木が無かったら、数十mの谷底に落ちていただろう。3人とも即死か。
助けてくれた人々も「気を付けて!」といなくなり、私一人不安な気持ちで、寂しい森の中の道端でパトカーが戻ってくるのを待っていた。
車はぺちゃんこで廃車になり、自損で保険も下りないが、娘の頭もCTの結果では今のところ大丈夫みたいだし、妻の腕の怪我も思いのほか重かったが、骨は折れてなく、20いくつか縫ったが、10日もすれば抜糸できるということで、大事故の割には、奇跡的に軽かったと言わざるをえない。
今回の事故は基本的に年齢も考えない無理な強行軍にあったと思う。
いくつかの偶然が重なり合って、私たち三人は無事生き返らしてもらった。この事故を教訓としつつ、今後の人生を前向きに生きぬいていきたいものと三人で話し合った。
血だらけになって助けてくれた見知らぬ人々、神岡暑の警官、神岡町病院の野本先生・看護婦の太田さん、奥飛騨ガーデンホテル「本陣」の石田社長、濃飛交通のタクシーの運転手の皆さん等、今回の事故で多くの人々の暖かい親切に家族揃ってお世話になった。
私たちもこれから他人に返していこうと誓い合った。
(1997・8・13)
終わり
「深田100名山」ページに戻る