39年ぶりの槍ヶ岳
深田久弥の最初の三千メートル峰が槍ヶ岳であったように、私の最初の三千メートル峰も槍ヶ岳だった。
1966年夏、社会人となって初めての夏休みに、先輩に連れられて燕岳から大天井岳を越えて槍ヶ岳の頂上に立った。
今で言う表銀座コースである。
その2年前に深田久弥が「日本百名山」を発表したことなど全く知る由も無かった。
意識せずして最初に登った日本百名山が結果的に槍ヶ岳だった訳である。私の日本百名山踏破の最後は黒部五郎岳であるが、今回の日本百名山踏破記念に39年前に登った槍ヶ岳も登り返そうと考えた。日本百名山を10年間と言うキリの良い年月に達成出来たという子供じみた願いからでもあった。
この10年間日本百名山を登り続けながら幾度となくあの鋭い天を刺す三角錐を眺めた。周りの人たちの「あ、槍が見える!いつかはあの上に!」という感嘆を聞きながら、密かに私はあの頂上に立ったことを誇らしく思ったものだ。
深田久弥も燕岳から入山したが、未だ喜作新道(東鎌尾根)は拓かれていなく、常念岳から中山峠を越え、一の俣谷から槍沢へ入り、槍ヶ岳を目指したそうだ。
2005年9月13日(火)、毎日新聞旅行社による「槍ヶ岳」ツアーに参加したのは男7名と女性6名の13名であった。
リーダーは先日の幌尻岳も一緒だった川村さん。
7時半に梅田を出発。名神高速に乗り養老PAでトイレ休憩。ここは今開催されている「愛知万博」の影響で満員だった。女性たちは長蛇の列で可哀想。
東海北陸自動車道で高山に向かい、平湯から安房トンネルで上高地に入った。


上高地バスターミナルで下車。ここから河童橋まで少し歩き、いよいよ登山開始。しかしここは誰でも行ける上高地。軽装の老若男女でまさしく観光地の雑踏そのものだった。午後2時に出発。




約1時間で明神に着く。ここから徳澤ロッジまでも約1時間だ。明神からの道も登山道というより散策道だったが観光客は殆どいなかった。
今日はここ徳澤ロッジの泊りだ。私は2回目で懐かしい。井上靖の「氷壁」の舞台になった「徳澤園」は直ぐ側だ。












9月14日(水)、今日から本格的な登山だ。ここ上高地の徳澤は標高約1560m。槍ヶ岳は3180m。標高差1600mを登ることになる。


私の登山記録で一日の標高差登りの最高は悪沢岳の2000m、登って下る標高差1500mは羅臼岳や利尻岳など数多くあり、今回は登りだけで頂上の槍岳山荘で泊るということなので体力的に不安は無かった。
天気予想は悪かったが出発時に雨は降っていなかった。ラッキーだった。
早朝の4時15分に起床。5時にロッジを出た。まだ外は暗くヘッドランプをつけて出発。
パノラマコースの新村橋を左に見て、横尾山荘に6時に着く。ここは標高1615m。ここで朝食。おにぎりの弁当が支給されていたが、私は事前に非常食として買っていたパンを食べた。私は行動中の朝食や昼食はおにぎりでなく、パンやお湯を注ぐだけのミニうどん等が食べやすかった。



前回の穂高登山時はここから横尾大橋を渡って涸沢から穂高に登ったが、今回は槍沢に沿って登る。7時11分に一の俣に到着。深田久弥は常念岳からここに出てきて槍に登ったことを思い出す。
8時5分に槍沢ロッジに着く。ここは標高約1800m。ここからが本格的な登山道だ。
私はいつものようにラストを歩く。30分で赤沢岩小屋、大曲りからは急登だった。10時に天狗原の分岐を通過。
私は最後をゆっくりと歩いていたが、体の調子は万全では無かった。足も攣っていなく、しんどいことは無かったが、百名山達成前のように何が何でも登ろうと言う気力がなくなっているみたいだった。
昨年北アルプス縦走で折立から太郎平への急登で、女性の百名山達成者が早々に棄権したことがあった。体調が悪いと言う理由であったが、多分気力が萎えてしまったものと思う。
その気持ちは今回良く分った。









大曲りからの急登の時、私はここで戻ればしんどい思いはしなくて良いものをという雑念に捉われた。
今からならまだ2時間ほどで槍沢ロッジに戻れて、横尾・明神と飛ばせば上高地に午後3時ごろには帰れる。今日中には奈良の家に着く。
百名山を踏破した今、まだこんなしんどい思いをして何故山に登るのかと言う自問自答だった。
来年は私をアフリカのキリマンジャロに連れて行き、頂上を踏ませると言って頂いているリーダーの川村さんに悪いと言う気持ちと、
今回参加のメンバーから「ベテラン」と思われているのにリタイヤーするかっこ悪さで付いて行った。
それともしここで棄権したら私の本格的な登山は今後無くなると言う不安があった。もう3000m級の登山は不可能という恐れだった。
そのような気持ちで山を登っていたのだから山に対して冒?したことになる。





11時に昼食、播隆上人ゆかりの坊主岩を過ぎる頃から私の足も笑い出した。気持ちの萎えが足に来たものと思える。歩けないほどの強さではないが無理をすれば足を引き攣ってしまう予感がした。
東鎌尾根からの道とぶつかり、直ぐに山荘のある槍の肩に出た。
槍岳山荘に入ったのは午後1時だった。9時間の予定を8時間で登ったことになる。
外はガスの為展望が全く効かない。
小休止の後、槍の穂先に登ることになった。
私は既に登っていることもあり、このガスでは何も見えないと遠慮したが、やはり体力と共に気力が弱くなっていることを感じた。
よく百名山を達成した後、無気力になると聞いていたがこれがそうかと納得した。
取り敢えず私は引き返さずに槍ヶ岳に登れたことに満足した。
夕飯は食欲が無かった。ビールと仲間が持参したウィスキーを少々嗜みながら、ストーブの前で山仲間と山談義を楽しんで、早く床に就いた。

9月15日(木)、前夜は台風15号の影響で槍ヶ岳は暴風雨の真っ只中。朝には風は収まっていた。今日は6時10分に山荘を出た。防寒のため上下の雨具を着ける。
飛騨乗越から1時間で千丈乗越分岐。飛騨沢に沿って8時35分に槍平小屋に到着。途中の穂高連峰のシルエットが美しかった。9時32分に滝谷の分岐で藤木レリーフがあった。






ここは飛ぶ鳥も通わないと言われた滝谷の入り口だ。槍ヶ岳からのこの下りのコースはゴロゴロ道だった。
1時間ほどで白出沢出合に出た。39年前に私は奥穂高からここに降りてきたのだったと感無量だった。







ここからは林道で私は今回の山で友になった竹中さんや藤田さんと談笑しながら山を下った。


竹中さんは70歳の節に槍ヶ岳に登ることにしたらしい。又、ウォークも熱心で100kmを22時間で歩くそうだ。藤田さんは68歳で毎日1kgの靴を履いて散歩し訓練しているそうだ。果たして私は70歳になった時、彼らと同じ体力と気力があるかどうか自信も無く分らない。


平湯バスターミナルで3Fの温泉に浸かり、昼食を食べて大阪に帰った。
8時半に何時ものように妻に生駒駅まで迎えに来てもらった。感謝感謝。
終わり
(記述日:2005.9.17)
(掲載日:2005.9.17)
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